『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ
●今回の書評担当者●HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代
先日の第一回日本翻訳大賞の授賞式はとても素晴らしいものだった。
あまたに見られる『授賞式』特有の堅苦しさもお金の匂いも無く、名刺交換会の場にもならず、えらい人の有難いお言葉もない。本業でない司会者のビミョウなリズムの語り口に笑い、受賞者のことばに目頭を押さえ、賞を立ち上げた翻訳者たちの選評はとても興味深く、翻訳作業の進め方や作品にまつわるあれこれなどを、会場に居た皆でわくわくと聞いた感があった。
表現する言葉をひとつひとつ選ぶこと、作品を俯瞰的に見てどのように作者の思いを伝えるかを生業とする彼らの発する言葉は、穏やかながらもとても熱を帯びていた。芸術作品を一度受け取り、自分を通してまた世に送り出す彼らは職人であり研究者であり表現者なのだということが、とてつもなくびびーんと響き、私が海外の文学や映画などで心動かされてきたあの瞬間は、彼らが居なければ成り立たなかったんだ!ということが、頭でなく体ですとんと感じた夜だった。
そんな大いなる裏方の仕事の素晴らしさを堪能した一冊を紹介します。
『その夜、彼は11歳で、世間のことなど何も知らぬまま、人生で最初にして唯一の船に乗りこんだのだった。まるで海岸に新たに都市が作られ、どんな町や村よりも明るく照らされているような感じがした。』
故郷スリランカからイギリスへ3週間に渡る一人旅。夜に乗り込む大きな客船。闇夜に浮かぶ船の灯りや人々のざわめき。不安を憶えながらもドキドキ高鳴る好奇心が抑えられないマイケル少年の息づかいが聞こえてきそうな冒頭の場面。
本の原題は『cat's table』。いちばん歓迎されていないお客が着くテーブル、末席のことを指すのだそう。
そのテーブルには同年代の少年、物静かなラマディンとやんちゃ者のカシウスが居て、3人は徐々に友情を深め、この船で様々な経験をします。見るもの聞くことが全て新しく、もう寝ている時間さえ惜しい!
同じテーブルにはジャズ・ピアニストのマザッパさん、植物学者のダニエルズさん、鳩を隠し持っているミス・ラスケティ、元船体工のネヴィルさん、仕立て屋のグネセエラさん(一切言葉を発しないのが謎)という、今まで出会ったことのない大人達が彼らを惹きつける。
明け方にオーストラリアの少女が滑るローラースケート、甲板にシーツのスクリーンを張って観る映画上映会、深夜に散歩を許される囚人、食事会が行われた船の底の植物園、嵐の中の度胸試し、夜のスエズ運河で働く大人たち......。
船の上の場面はどれもドラマチックできらきらとしていて、少年時代の冒険の回想譚と思わせながらも、実はシリアスなミステリの要素も含み、3週間の船旅で出会った人たちの過去と未来を、大人になり作家となったマイケルがゆっくり静かに紐解いていく。
少年期の終わりを告げる様々なできごと。儚く少し悲しくも、その時のときめきがその後の人生に豊かに広がっている。 自分に大きな影響を与えたであろう、限られたあの時間。
もういい大人になったので親しい友人の少年期の出来事を聞いてみたいと、読み終えて思った。大きな船に乗り込むような大冒険は無くても、時を経たからこそ語れる郷愁なようなものを、誰もが持っているに違いない。その人を少なくとも形作ったであろうささやかだけれど大事な出来事を、自分もその場で同じ時を過ごしたかのように懐かしく聞けるような気がする。
- HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代
- (旧姓 天羽)
家具を作る仕事から職を換え書店員10年目(たぶん。)今は新しくできるお店の準備をしています。悩みは夢を3本立てくらい見てしまうこと。毎夜 宇宙人と闘ったり、芸能人から言い寄られたりと忙しい。近ごろは新たに開けても空けても本が出てくるダンボール箱の夢にうなされます。誰か見なく なる方法を教えてください。