『黄金の服』佐藤泰志

●今回の書評担当者●HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代

 来年の夏、映画『オーバー・フェンス』(『黄金の服』収録)が公開されると聞いた。『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続いて佐藤泰志作品の映画化は3作目となる。

 中学時代から作家を目指し、高校時代は青少年文芸賞などに入賞、村上春樹ら同時代の作家たちと並び称されながら、大きな文学賞を受賞することなく、失意のまま自ら命を絶った不遇の作家・佐藤泰志。

 『オーバー・フェンス』は佐藤が36才の時に書いたもので、この作品で通算5度目の芥川賞候補になったが、やはり受賞には至らなかった。

 主人公・白岩は妻と生まれたばかりの子どもと別れたのち、東京から故郷の函館に戻り、職業訓練校に通いながら失業保険で暮らしていた。人との付き合いを最小限にし、部屋には物が置かれることも無く、毎日ビールを二缶のみ買って帰宅し本を読む生活。訓練校の実習も、まもなく開催される学科対抗ソフトボール大会の練習にも身が入らない。そんな彼に、仲間の代島から聡(さとし)という名前の女性を紹介されるが......。

 訓練校に通う仲間は年齢も、ついていた職業もまちまちで、ほとんどが一年後に卒業しても建築業に就くつもりがない。皆ここまで流れて、失業保険を貰いながら暮らしている。左手の小指がないのを軍手で隠している男、海底トンネルを掘っていた男、自衛隊を8ヶ月しか勤まらなかった男。皆かつて思い描いた生活、いつまでも続くと思っていた生活に挫折し、今この時のみ同じ場所にいる。

 この小説は夢を諦めかけ、故郷函館に戻り、一時職業訓練学校に通っていた佐藤自身の実体験をもとに執筆されたという。彼が描き続けてきたものは、時代に翻弄され、このままで自分はどうなるんだろうという不安感とその先にある微かな光。小説に出て来る者は一様になにかに挫折し、胸の底に諦念を抱いている。しかしその冴えない日々の中にも、一瞬だけスパークするきらめきの場面が必ずあるのだ。広く暗い海に漂うような世界感の中で、海面がきらっと光るその瞬間はとても切なく眩しく映る。

 白岩は「いつか忘れていくだろう」と願いつつも、何をしてもどこに居ても思い出してしまう。産院で妻と浮き浮きしながら子どもの名前を考えたこと、彼女の迷路になった心を解きほぐすのなら何でもするつもりだったこと、他人の眼などどうでもいい、早く妻が自分を取り戻し、自分たちは確かに若いが、堅実で、明るい家族になることができると信じていたこと。

 彼はそのきらきらと光った過去を手放すことができないでいた。そこへ、傷ついた過去が持ちながらも、まだ何かを掴もうと手を伸ばす聡が彼の前に現れる。

『どうもこうもあるか。ここまで来て』

 聡が応援席で見守る中、そんな思いでバッターボックスに白岩は立ち構える。
 ぎりぎりまで堕ちてしまった人間の、最後に振り絞った奮起みたいなものを感じずにはいられない。『海炭市叙景』では、街の開発のために昔から住んでいた家の立ち退きを迫られている老婆が、妊娠した飼い猫に向かって言う。『産め、産め。みんな育ててやる』破れかぶれでも構わない。どんなかたちでも生きてやるんだという生命力。自分を徐々に取り戻していく白岩の戸惑いと喜びが痛々しくも嬉しい。

 今年は没後25周年に当たり、佐藤が生きた80年代バブル期とは時代が違えど、底辺に生きる者の息苦しさはさほど変わらないように思う。私個人としては佐藤泰志が亡くたったときの歳となり、作家と同じ目線で作品が読めることに喜びも覚えるが、歳を重ねることによって、より彼らの哀しみが近く感じられるようになったことも事実だ。

 函館に戻り、職業訓練校にまで通った佐藤だが、芥川賞にノミネートされたことを機にまた上京する。彼のなかで小説を書くことは生きることであり、生きている実感が得られる唯一無二のことであったのかもしれない。終わったときのかたちで、人生を判断するなかれ。佐藤作品の中の町に生きる市井の人々はみな私だ。彼らの慎ましく働く姿や、家族とのすれ違い、いつも不安で、劇的な出来事などひとつも起こらない日常は、そっくりそのまま私たちのものだ。もがきながらもたくましく生き、ささやかな喜びに顔をほころばせる姿を、佐藤泰志が遺した作品とともに、とても愛おしく感じたい。

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HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代
HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代
(旧姓 天羽)
家具を作る仕事から職を換え書店員10年目(たぶん。)今は新しくできるお店の準備をしています。悩みは夢を3本立てくらい見てしまうこと。毎夜 宇宙人と闘ったり、芸能人から言い寄られたりと忙しい。近ごろは新たに開けても空けても本が出てくるダンボール箱の夢にうなされます。誰か見なく なる方法を教えてください。