角田光代のファンである。なので、毎回新刊が出るたび飛び上がるようにうれしい。けれど正直それだけではない。この人の小説を読むと、いつもいつもえっ、と驚かされる。どうして知ってるんだろう......なんでこんなにわかっちゃうんだろう私のこと......と読んでいて怖くなることがあるからだ。

　どこにでもいるような主婦が裁判員に選ばれた。子どもを虐待死させてしまった裁判員裁判の補充裁判員になった里沙子は、子どもを殺した母親・水穂、そして彼女関わる人々の証言に触れるうち、いつしか自分自身の境遇に自らを重ね、被告人である水穂に感情移入していく。自分と周りを取り囲んでいる環境や子どもとの関わりに強い不信感と不安を抱くようになる。

　裁判員制度が実際にどういうものであるかというのを、ごく当たり前に暮らす主婦の元へ通知が送られ、その後生活にどういう変化が訪れるのかを読み、初めて現実味を帯びて知った気がする。

　里沙子は自分の両親と折り合いが悪く、裁判の期間中夫の実家に子どもを預けるため、自宅から実家、実家から裁判所へと毎日通うことになる。ここがとても丹念に描かれていると気付く。小さな子どもを連れた公共機関での移動は、本当に体力と精神力をすり減らす。また、第三者に子どもを預けることへの申し訳なさと不安は、常に子どもと密着する母親からすれば、ほんの少しの時間だけでも後ろめたさに押しつぶされそうになるはずだ。そして里沙子の行動範囲というのはそんな限られた狭い世界でしか無い。裁判所に行かなければ、もっと小さな、もっと社会と関わり合いの無い世界で彼女は生きている。

　子どもを育てる母親は、自ら積極的に関わろうとしなければ社会から簡単に孤立してしまう。そして「子どもと母親」のという二人ぼっちの世界は、世間的にとても幸せな形にしか見えない。彼女たちの孤独や肉体的・精神的疲弊は、見た目の幸福感から、周囲になかなか理解されない。

　そしてモラルハラスメントという言葉が「あること」と認められていても、まだまだ実際の認知は低いように感じられる。この法廷に立つ人たちの主観により語られるそれぞれの印象の違いは、モラルハラスメントの判断の難しさ描いていると言っていい。水穂は夫がこわいと証言するが、ある人から見ると妻に手を挙げたりせず、子育ても積極的に加わる優しい夫にしか見えない。さらには、彼女の居る「子どもと母親」だけの狭い世界が、周囲の人からの彼女への理解を遠ざけている。加害者が世間から認められる人であればあるほど、被害者が声高に訴えたところで理解されない。

　自立性や自己肯定感が低く、態度に惑わされやすい被害者と、自分の言動のハラスメント性に無自覚な加害者。目には見えない心の傷をたくさん与えるのがモラルハラスメントだとすれば、夫婦二人の間だけで交わされるやりとりは、果たして法廷などで明らかになるような罪になり得るのだろうか。

　最後の章で、被告人である水穂が証言台に立ち、裁判長が淡々と判決を読み上げられるのを里沙子は聞くともなしに夢想する。水穂と自分が例えば児童館の片隅で自分と子どもの名を名乗りあい、さらけ出して話す場面を。＜夜泣きがひどくて、本当に、私頭がおかしくなりそうだったわ。----旦那の母親がミルクじゃかわいそうって言って、もう、まいっちゃった。----子どもをぶっちゃいそうになったことって、ある？＞

　自分たちは誰でもない、母親でもなく妻でも、誰かの娘でもない、何も負わされることなく、何ひとつとらわれることなく、無邪気な自信と陽気さにあふれた、まっさらな自分自身に戻って向き合って話せたかも知れないと。

　あり得ない出会いを、あり得ない時間を想像する場面がとにかく悲しかった。

　手をかけなければいけない子育てはとっくに終わっているのに、読んでいる間小さな子どもを持つ母親になったような、いまだ傍らに小さな子を寝かせ、起こさないよう気をつけながら一人読書をしているような感覚を覚えた。

　そのような立場にたった今あるように読んだので、非常に重く辛い作品だった。どうして知っているんだろう、どうしてわかっちゃうんだろう。気付かず心に張り付いてるようなことが、ふいに明らかにされる。角田光代の作品にはどこかに必ず自分が居るのだ。