『羊と鋼の森』宮下奈都
●今回の書評担当者●ブックデポ書楽 長谷川雅樹
毎年、出版業界では書店向けに「書店大商談会」というイベントが行われている。大きな会場に200を超える出版社のブースが出され(基本は各社、長机が一台置けるくらいのスペースしか与えられない)、書店関係者がそこに立ち寄ると今人気の本やこれから発売される期待の本の紹介を受けることができ、「いける」と思った本があればその場で注文できる、というイベントだ。
関係者しか参加できないというこのイベント、ただの本好き、出版社好きでもある自分からしたら夢みたいなイベントである。2年前のその商談会で、まだ文芸書担当に着任して間もない私は、「とにかく名刺を100枚集める!」というお題を自らに課し、このイベントに臨んでいた。
ブースを駆け回るなかで文藝春秋さんのブースにも立ち寄らせていただいていたのですが......ここで「ある本」と出会った、というのが本日のお話です。
文藝春秋さんといえば、その名を知らぬものはいない、歴史ある出版社である。自分みたいな着任したてのひよっこ文芸担当が、「たのもー!」とブースに立ち寄るやいなやいきなりドカンと椅子に腰かけ、「さあ私におすすめ本の説明をしてください」と言うこと自体が烏滸がましいというか、客観的に見て立場的に滑稽というか、菊池寛先生に苦笑いされているようで、正直心臓バクバクであった。高級料亭に初めて入店するような気持ち(入店したことはないです)で「あ...あの......すいません......」と、恐縮しきりのたどたどしいご挨拶をさせていただいたことをよく覚えている。
ご対応いただいたのは営業部部長(!)のHさま。私のような新参者にもにこやかなご対応をいただけたことがありがたかった(もっと勉強しなければと思った)。いろいろお話をして、長居しては申し訳ないと席を立とうとしたころだったか「そうそう、いい原稿がありまして......お読みになります?」と言って、私にゲラをお渡しになった。これが、今思えば、ターニングポイントだった。なぜなら、手渡されたそのゲラのタイトルは
『羊と鋼の森』
だったからだ。今思えば、このときこのゲラを戴けなかったらと、ぞっとする。H様には心より感謝しております。
ゲラを読むのは好きで、いつも書店員冥利に尽きるありがたいお話と、戴いた作品すべてに目を通させて戴いているのですが、本作は......数ページ読んだだけで正直、段違い、いや「段違い」というのは表現として違うな、どの作品にもいいところがあるのだから......うーん、なんでしょう、「今まで感じたことのない読書体験に、背筋がぞわっとした」と表現するのが正しいのか......とにかく「この作品は凄い」と確信した。35冊で発注をかけさせていただき、ありがたいことに、満数で戴いた(ここで満数いただけたのも奇跡的なことで、不思議な話である)。
ワクワクしながら多面で積み、1週間経過・・2週間経過・・じつは当初、売れが出なかったのだが、でも、この本は大丈夫だ、そう言い聞かせ「今年度の本屋大賞には、この作品に投票します」とPOPに書き、展開を続けた。前の記事でも書いたし、どこの書店さまでもそうだと思いますが、売れない商品を積み続けてはいけない決まりがあるなか、積み続けた。いろいろ場所を変えた。口コミでも話題になっているようで、1か月に3冊、4冊と、じわじわと売れてきたが、もっと売れてほしい、「売らなきゃ」「売れて!」「売れようよう......」そうおまじないのように、売り場に念をこめ続け展開し続けた。
展開を続けて数ヵ月。直木賞候補作品にノミネート、とのお知らせが入った。私がノミネートされているわけではないのに「やった」と思った。何の根拠もなく「間違いないだろう」そう呑気に構え「ああよかった......やっとだ......」くらいの気持ちでいた。
発表前日、文芸売り場エンド台の一番手前一等地、受賞が決まっていたわけでもないのにいきなり前に持ち出して多面展開をしはじめ、書楽のツイッターを更新する準備をして、受賞時のさらなる大型展開まで予定して、文藝春秋の当時の当店担当のOさんに興奮のあまり「直木賞&本屋大賞の初ダブル受賞の可能性も出てきますね!」なんて謎の迷惑メールを送りつけ、受賞後の発注数のことばかりを考えていた。
そして......発表。『羊と鋼の森』は、直木賞の受賞はならなかった。
偽りない心で、ストレートな言葉で言えば、「ヤバい」と思った。「この作品が埋もれてしまう」。その恐怖に、心が震え慄いた(ただ、今、当時を振り返ってじっくりと考えれば、ノミネートされたほかの作品だってもちろん素晴らしいわけで、実際受賞された『つまをめとらば』をはじめ、素晴らしい作品ばかりであり、激戦だったことがわかる。とにかく『羊と鋼の森』のことだけを考えていた、視野狭窄の自分がそこにいた。「『ヤバい』と思った」じゃないよと、当時の私に、今の私は強く言いたい)。
書店に本が並ぶその前に、「売れないだろうから」という理由で企画会議でふるい落とされる、多くの"本の種"たちの存在がある。なかには売れないだろうけど面白い本の企画もあるはずなのに、狭き門をくぐりぬけた出版企画しか残らないのが業界の実情だ。だから、出版社から「実際に出版された本」は、すべて尊い。出版するのには、お金がかかる。にもかかわらず出版されるからには、そこにかならず意味がある。適当に出される書籍なんてひとつもない。不況のさなか、そんな余裕はどこにもない。書き手、編集、装丁家、印刷所、営業、すべての人の心がそこにはこもっている。売れてほしい、読者に届いてほしいという願いを託して、本は書店に配本される。
特に、「出せば出すほど厳しい現況」と言われる文芸書は、それが顕著だ。現状あまり結果を残せていない作家さんにとっては、本を出版するというのは、一冊一冊が勝負であろう。著者様が一言一句に手間ひまをかけ、編集は徹夜当たり前の壮絶な校正作業をし、そして、原稿が校了してもこんどは装丁デザイン・・、ほとんど微差だろう、お客様には気づかれないだろうというところの色味ぐあい・配置を時間ぎりぎりまで詰め、文芸書は作られていく。
そうした願いがこもっているのに、1冊も売れないという理由だけで、はやければ1~2週間で返品されていく本たち。返品の箱を作るのは私だ。本が好きで業界を志たが、だからこそ業界にうんざりすることも少なくはない。『羊と鋼の森』のような素敵な作品が売れず、このまま消え去っていくだろうことは、その現状、書店業界の暗部を痛烈に象徴する出来事のように思えて、すごくかなしかった。
「本屋大賞があって、本当によかった」。当時、素直にそう思った。いろいろ批判もある、それはちゃんと本を発掘できていないわたしの責任でもあるのだが、とにかくこの時ばかりは、この本屋大賞に懸けさせてほしい、そういう気持ちでいっぱいだった。
『羊と鋼の森』は、すでに本屋大賞の一次投票で通過(決選投票ノミネートされることが確定)していた。他店の企画ではあるが紀伊國屋書店さんの「キノベス」1位も既にこのとき獲られており、心強かった。大賞作を決める2次投票のコメントに私は「『この本に本屋大賞を獲ってほしい』。ここまでそう強く思うことは、私はもうないかもしれません。すべての方に向けて、自信を持ってお薦めさせていただきます。」と書き、1位投票をして、発表を待った。
......あとは、皆様ご存じのとおりである。本屋大賞受賞後、本作は50万部を突破。授賞式で、宮下さんのスピーチに涙した。
ゲラを頂いて読めたのは、もうこれは偶然以外の何物でもない。ここで思う・教訓にしたことは、「書店に求められている役割」というのは【1】「お客様がお探しになっている本を、欠品しないように品揃える」というのがまず大前提であり、つぎに、【2】「お客様と本との偶然の出会いの場にする」ことが大切だ、という当たり前のことだ。その達成のため粛々と仕事するのが、書店員の仕事である。
【余談】
『羊と鋼の森』の本屋大賞受賞後「生まれた瞬間から天才の登場人物しか出てこない音楽小説アニメ漫画が多すぎてこれはどうかと思いませんか皆様! そうではない『羊と鋼の森』、最高の作品です! ぜひお読みください!」というような内容をPOPに書いて1年後、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を読ませていただいて瞬間手のひらクルー、舌の根も乾かぬうちに「栄伝亜夜ちゃん天才! 愛してる!」と叫びながら、臆面もなく本作に本屋大賞1位投票をしました。
......ちょっとふざけて書きましたが、真面目な話、『蜜蜂と遠雷』は直木賞を獲っている作品であり、正直本屋大賞には選びづらい作品だったのです。でも、それでも投票させてしまう力が本作にはありました。プロットで選り好みするのではなく「読んで評価する」ことが大事だ、ということを肝に銘じなおした次第であり、「本の力」って、あるんだなあ......と改めて感じた出来事でした。まさか自分が、(既に世間からの評価を得ている)直木賞受賞作に、(本来は発掘することが主題の)本屋大賞の票を投票するなんて、思ってもみなかったので。
- 『自生の夢』飛浩隆 (2017年6月8日更新)
- 『ひとさらい 笹井宏之第一歌集』笹井宏之 (2017年5月11日更新)
- ブックデポ書楽 長谷川雅樹
- 1980年生まれ。版元営業、編集者を経験後、JR埼京線・北与野駅前の大型書店「ブックデポ書楽」に企画担当として入社。その後、文芸書担当を兼任することになり、現在に至る。趣味は下手の横好きの「クイズ」。書店内で早押しクイズ大会を開いた経験も。森羅万象あらゆることがクイズでは出題されるため、担当外のジャンルにも強い……はずだが、最近は年老いたのかすぐ忘れるのが悩み。何でも読む人だが、強いて言えば海外文学を好む。モットーは「本に貴賎なし」。たぶん、けっこう、オタク。