『少年は荒野をめざす』吉野朔実
●今回の書評担当者●ときわ書房千城台店 片山恭子
2016年5月2日、予期せぬ知らせに文字通り頭が真っ白になった。吉野朔実さんの突然の訃報だった。吉野さんと交流のあった方々が哀悼のメッセージを発表され、これは現実なのだと思ったが、感情が全く追い付いて行かなかった。あれから一年。奇跡の作品、『少年は荒野をめざす』の愛蔵版が出た。「ぶ~け」と同じサイズ、究極にシンプルな美しい体裁での刊行に、作品への深い愛が感じられ、吉野さんも喜んでおられる気がするのは私だけではないと思う。名作中の名作について、私などが語れることがあろうかという葛藤と、おこがましいにも程があるのは重々承知だが、珠玉の言葉たちと、心に焼き付いて離れないひとコマひとコマ、愛おしい作品の数々を世に生み出してくれた吉野さんへの深い感謝を伝えたかったというファンの切なる思いに免じてお許しいただきたい。
中学生だった。家族で帰省先の小倉から東京へ向かう新幹線で読む本を探し、駅売店で大人っぽいかなと思いながら父に買って貰った「ぶ~け」。掲載されていた『荒野』との出会いを運命と呼ばずに何と言おう。その美しい世界に言葉を失うほどの衝撃を受けたのを、今も鮮明におぼえている。出合ったのが多感な時期で主人公の狩野と同じ年頃だったのも大きかったと思うが、人生において最も影響を受けた作品の一つであることは間違いない。そしてこれ以降、吉野作品の虜となったのは言うまでもない。「本の雑誌」も吉野朔実劇場が載っていれば、真っ先に開いて読んだ。
主人公の狩野都は腰まで届く長い髪を持ち、中学生で新人文学賞を受賞、その後も高校生作家となる。幼いころ体の弱かった兄を亡くしたことから深い喪失感を抱えている。中学時代の同級生で仲間の秀才頭脳派・管埜、甲子園を目指す野球少年・小林、翻訳も手掛ける評論家・日夏さん、高校で同じクラスとなる浅葱中で同級生だった海棠ちゃん、そして運命の人・黄味島陸とその彼女の鳥子さん、狩野の母親で作家の草薙瞳子、心臓に持病のある父親で専業主夫の周防さん。『月下の一群』で建築を学ぶ学生だった清村さんが、狩野の通う高校の新築校舎設計を請け負う建築屋として登場している。登場人物たちはみな、時に人を羨んだりするし、自分の心を直視できない弱さを自覚しながらも、自身に誠実であろうと、真摯に生きている。
中学・高校とスポ根少女であった私は、勉強が出来るとか美貌の持ち主だとか、話術が巧みといったわかりやすい長所を持つのが魅力的だと信じていた単純さゆえ、小林の「人に誇れるよーな不幸をもってるってうらやましー」というセリフに共感を覚えた。成長するにつけ、その単純さがコンプレックスとなり、うまく説明できない複雑な感情が繊細に表現されている作品世界に強い憧れを抱いた。「世間の常識が正しいかどうかは問題じゃないのよ 自分の正義と常識の折り合いをどうつけてゆくかなのよ」こうした言葉が時として支えとなり、自分と違う考えを持つ他者との関わり合いに悩む時、中3生全面禁止となった文化祭の出し物を、強制参加しようと3年4組の生徒たちが色めき立つ中、ひとり海棠ちゃんが抜け出ると言い出した時の管埜の神対応や、その真意を卒業式に彼女が管埜に告白するシーン、それから陸と別れ、別の人と付き合い始めた月子への、海棠ちゃんの非難に対する狩野の「幸せになりたいだけ 自分を切りかえるのは勇気がいる」といったセリフを思い出した。折りに触れ思い出す印象深いシーンがある。日夏さんの「大人だと思って甘く見るなよ 子供が育っただけなんだからな」という言葉を受けて、狩野が駅の雑踏の中で述懐する「大人と子供の境目は何処にあるんだろうって どうしたら大人になれるんだろうって......もしかしたらこの人達もそう思いながら大人って呼ばれてるだけかもしんないね」中年となった今も恥ずかしながら、このセリフを日々噛み締めている。
年ごとに共感するキャラクターやセリフが変わるのも、一つの作品を幾度となく読み返すことの醍醐味だが、今回この愛蔵版を読みグッとくるセリフが多かったのは、小林だった。「コンプレックスの強いばかって嫌いよ!! ばかが暗くてどーする」「野球ばか 野球やめたらただのばか」......ときめいてしまったのは、日夏さんばかりではないのであった。
私が死んだら棺に一緒に入れてもらい、あちらでサインをねだろうか、と思うほど思い入れの強い『荒野』だが、燃えてしまうのは忍びないので、形見分けで姪に貰ってもらおうと密かに思っている。本屋で働くことになり、いつか本の雑誌社に遊びに行った時に打ち合わせでいらしていた吉野さんと偶然にお会いするという少女趣味な夢を抱いていたが、今生では夢のままで終わってしまった。私にとって憧れのひとは、永遠に雲の上の存在のままなのである。
- 『ゼロ・アワー』中山可穂 (2017年5月18日更新)
- ときわ書房千城台店 片山恭子
- 1971年小倉生まれの岸和田育ち。初めて覚えた小倉百人一首は紫式部だが、学生時代に枕草子の講義にハマり清少納言贔屓に。転職・放浪で落ち着かない20代の終わり頃、同社に拾われる。瑞江店、本八幡店を経て3店舗め。特技は絶対音感(役に立ちません)。中山可穂、吉野朔実を偏愛。馬が好き。