『伊丹十三選集 一・二・三』伊丹十三
●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明
この本ではじめて伊丹十三を知る人は幸せだと思います。伊丹十三の文章をただ読むだけならほかの文庫でも読めますが、函といい、活字の組み方といい、書体といい、行間といい、手触りといい、手に取って読みはじめただけで、まるではじめて映画館の中に足を踏み入れたときのような感動があります。
白を基調としたデザインは伊丹十三自身が手掛けた父親の『伊丹万作全集1・2・3』のオマージュで、日本人よ/好きと嫌い/日々是十三の三つのテーマで、編集者・松家仁之氏、建築家・中村好文氏、次男・池内万平氏の三人のイタミストが、素敵な伯父さんとしか言いようのない永遠の伊丹十三を、書き起こしの文章とともに編みなおしています。
エッセイの中でも有名なのは、2巻に収録されている「スパゲッティの正しい食べ方」で、喫茶店のうどんのようなナポリタンしかなかった時代に、『武器よさらば』のスパゲッティの食べ方は間違っているとヘミングウェイを袈裟斬りにして、スパゲッティの茹で加減は「アル・デンテ」でなければならぬ、という鉄則を日本中に知れ渡らせました。
思想家の内田樹氏は、「65年当時の日本人はほとんど何も知らなかった。スパゲッティの茹で方もスポーツカーの運転の仕方もアーティチョークの食べ方も私たちの世代はすべて伊丹十三から教わった」(『ケトル47号』)と当時を振り返ったエッセイで紹介しています。
上質のユーモア、好き嫌いがはっきりした文章、正統なものへの愛、何よりも新しいことをリスペクトする視点など、1960年代に伊丹十三が開拓した日本人への素朴な疑問の集積をフルコースで味わうことができます。
伊丹十三の文体には、「ないもんねえ」「なわけさ」「マア」みたいな語りかけるような特徴がありますが、なんでも二つに分類する力技もたまりません。二巻に収録されている「脱毛」では、突如としてぬけはじめた頭髪を観察し、
「嘗て私はこう考えていた。中年を過ぎれば人は毛髪に起こる二種類の変化を避けることができぬと。即ち、一つはごま塩から総白髪に至る道であり、一つは薄くなって遂に禿頭に至る道であり、これを要するに白髪か禿か、二つに一つなのである。」
ところが、「そう──白髪の禿──これを私は見落としていた! もしかしたら──嗚呼! もしかしたら、私の未来像は、てっぺんが禿頭で、周辺が白髪という、あのスタイルではないのかしらん!」
には、お腹をかかえて笑わされました。私自身も伊丹十三のいう二つめの道を歩みつつあり、この問題は切実ですが、そこからさらに、各界著名人に脱毛の悩みを突撃インタビューしていく記事には、腹筋が崩壊して、笑い転げてしまいました。函入りの本でここまで笑わされることは、おそらく二度とないでしょう。
伊丹十三が紹介する道具の比較文化論も痛快で、一巻の「唇の感触」では、ナイフとフォークをしりぞけて、「杉柾、利休形割箸」が日本一の割箸だといい、紙ナプキンとラムネは日本の二大発明である、という「悪魔の発明」にも笑わされました。二巻に収録されている「カルピスとコカコーラ」でまことにしやかに語られる嘘にもだまされます。
一貫しているのは、「美的感覚とは嫌悪の集積である」という哲学です。
他人のことを考えず、自分のことだけを考えて「走る男」や、ライターの王・ダンヒルに自分の名前を彫り込んでしまう女性バーバラ、スポーツカーのハンドルにビロードのカヴァをつけたお金持ちへの痛快な悪罵。「このミドル・クラスめ」という決め台詞が果たして現代でも有効なのかはわかりませんが、伊丹十三が何よりも素敵なのは、決して上からいうのではなく、親戚の伯父さんみたいに斜め上から語りかけるスタイルです。
「卑近な例でいうなら、たとえば君がなにかの理想を抱くほどの男子であるなら、一日のうちテレヴィジョンを見る時間が、書を読む時間より長いということはありえないことだと思う。(中略)
活字の効能というのは、物事を抽象化する能力を養うことであって、この能力を失った人間というのは、これは話をしていてもまるでとりとめがない。」(「テレヴィジョン嫌い」三巻)
私が伊丹十三に惚れ直したのは数年前、愛媛県松山市にある伊丹十三記念館にいって、次の伊丹十三が書いた手書きの言葉を読んでからでした。
「書物が私にとっては父親のかわりだったように思う。人生なにか問題がある時、私は解決の手がかりを書物に求めた。本好きの人間が本屋の書棚の前に立つと、必要な本はむこうからとび出してくる。本が私を呼んでくれるのだ。こうして私は多くの書物に出会った。書物なくしては私は、自分にも、妻にも、子供にも出会えなかったろう」(『ぼくの伯父さん』伊丹十三著・つるとはな)
読者の皆様に幸福な出会いがありますように。
- 『地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録』ジョン・ル・カレ (2019年3月7日更新)
- 『牛たちの知られざる生活』ロザムンド・ヤング (2019年2月7日更新)
- 『一日一文 英知のことば』木田元 (2019年1月3日更新)
- 梅田蔦屋書店 三砂慶明
- 1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki