『弥勒の掌』我孫子武丸

●今回の書評担当者●啓文社西条店 三島政幸

今年で6回目を迎えた「本屋大賞」に、私も第1回目から投票に参加しています。既にご存知の通り、今年の受賞作は湊かなえさんの『告白』でした。私も二次投票で『告白』に投票しているので、大きな驚きはなかったのですが、それでもやはり、おっ、と思ってしまいました。今までの受賞作とは明らかに毛色の違った作品が受賞したからです。
過去5回の本屋大賞はそれぞれ話題作が受賞していますが、共通項を挙げるなら「感動する小説」ということでしょう。「泣ける小説」と言ってもいいかも知れません。現代の世は「泣ける物語」が求められているのでしょう。
ところが、『告白』には感動も涙も、一切ありません。そこにあるのは、言わば「登場人物たちの身勝手なエゴ」であり、その歪みから起こる悲劇です。あの女教師の言動・行動をどう思うのか?
読了した人同士で話し合いたくなること必至の作品であり、読者に残るのは、その「後味の悪さ」でしょう。

もしかしたら世間の読書傾向は、「泣ける小説」「感動する小説」から、「嫌な小説」「後味の悪い小説」にシフトしつつあるのかも知れない。そう思った私に、ふと閃くものがありました。

だったら、今こそ受ける小説があるではないか!!
ということでここからが本題。お待たせしました。

我孫子武丸『弥勒の掌』は2005年4月に文藝春秋から「本格ミステリ・マスターズ」というレーベルの1冊として発売され、2008年3月に文庫化された、我孫子氏の現時点での最新長編です。我孫子氏は寡作の作家で、本書発売時にも「13年ぶりの書きおろし長編!」と帯に明記されていました(もっとも、連載の単行本化は『腐蝕の街』『ディプロトドンディア・マクロプス』などいくつかあります)。そしてこの『弥勒の掌』こそ、私が強力にプッシュしたい「後味最悪小説」なのであります。

すっかり冷え切った関係にある妻が突然行方不明になった教師・辻の物語。妻が殺され、汚職の疑いをかけられた刑事・蛯原の物語。小説は二つのパートが同時進行で描かれます。二つの事件の周辺には、《救いの御手》なる新興宗教の影がチラついています。やがて二人は出会い、お互いの事件の真相を追うため、協力して捜査することになります。辻が体験入信し、内部の様子を蛯原に報告していくのです。ところが徐々に、辻の心境に変化が訪れて......このあたりの描写は実にリアルです。
そしていよいよ、その宗教の本丸である教祖《弥勒》と対峙するクライマックスがやってきます。辻、蛯原の二人にとっては《弥勒》はまさに悪の総本山、ゲームで言うところの「ラスボス」です。ついに恐怖の真実が明かされるはずだ、と読者も思っているはずです。

ところが、本書が本当に凄いのはここから。ネタの核心になるので書き難いのですが、読者はまさに足を掬われることになるのです。《救いの御手》の正体に唖然とし、事件の真相に愕然となり、さらにラストにおいて、うわー、こんなことになるのか、と戦慄すること請け合い。これはもう完全にダークな世界。まさに「スター・ウォーズ」における××××のよう......いやいや、こんなこと書けません。
ミステリとしても実に巧妙で、ディクスン・カーのような離れ業にも成功しています。そういう点で、本格ミステリとしても高く評価できる作品なのですが、その後に待ち受けるラストをどう受け止めたらいいのか、読者によって戸惑いも見られるのではないでしょうか。そういう意味でも、後味は本当に悪い。「後味最悪小説」と私が言うのも納得されることでしょう。湊さんの出現から、後味の悪いミステリに対して「イヤミス」という呼称が普及しつつありますが、『弥勒の掌』は私にとって最強・最悪の「イヤミス」です。これは褒め言葉ですよ、念のため。

読み返してみると、最初から伏線が巧みに張り巡らされていることにも驚きます。例えば文庫版の13ページ15行目。実に何気ないこの一行に、こんなに深い意味があったとは!(読了後に確認してね)

ちなみに、書きおろしとして13年ぶりの長編だった本書の前に、我孫子氏が発表した書きおろし長編小説は、『殺戮にいたる病』でした。こちらもダークさとラストの驚きでは『弥勒の掌』に負けていない、強烈な作品でした。『殺戮にいたる病』『弥勒の掌』に続く、我孫子氏の次の一手は何か。待ち遠しくて仕方ありません。

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啓文社西条店 三島政幸
啓文社西条店 三島政幸
1967年広島県生まれ。小学生時代から図書館に入り浸っていたが、読むのはもっぱら科学読み物で、小説には全く目もくれず、国語も大の苦手。しかし、鉄道好きという理由だけで中学3年の時に何気なく観た十津川警部シリーズの2時間ドラマがきっかけとなって西村京太郎を読み始め、ミステリの魅力に気付く。やがて島田荘司に嵌ってから本格的にマニアへの道を突き進み、新本格ムーブメントもリアルタイムで経験。最近は他ジャンルの本も好きだが、やっぱり基本はミステリマニアだと思う今日このごろ。