『舟を編む』三浦しをん

●今回の書評担当者●喜久屋書店宇都宮店 大牧千佳子

 辞書はアツい。
 分厚さはもとより、この本を読むまで辞書編集の現場がこんなに熱いことになっているとはまったく考えもしなかったです、ごめんなさい。

 この本は辞書をつくることに人生をかけた辞書編纂者たちの物語です。
 会社人生を辞書に捧げてきた荒木も定年間近。後継者を探して奔走する。そして、トンチンカンな変人だが辞書編集に関して最適の人材、馬締光也と出会う。この出会いの場面がおなか痛い。笑いすぎで。言葉あそびの波状攻撃がぱしんぱしんキマるのだ。なんて瞬発力、なんてリズム感。

 そして登場する辞書編纂に携わる個性的な面々。
 辞書の鬼といわれる松本先生の辞書への情熱は凄まじい。鶴のような枯木のような体躯からは想像もつかないほどの執念を内に燃やしている。体験しなければ正しい語釈はできないと、馬締を三角関係の泥沼に放り込もうとしてみたり、食事中であっても用例採集カードと鉛筆は手放さない。

 この用例採集カードとは聞き覚えのない言葉を即座に記録するもので、辞書編集部には膨大な数の用例採集カードが蓄積されている。辞書を作るための大切な材料だ。もちろん荒木も馬締も常に言葉には注意していて、頻繁にカードに記入している。会話中でさえ気になる言葉がでてくれば考え込む。これが辞書編纂者の日常というものなのだろうか。これはもう仕事が好きとかそういうものじゃない、もっとこう激しい宿命のようなものにつき動かされているみたいだ。

 彼らと対称的なのがチャラ男西岡だ。言葉への探求心もなければ辞書への情熱もない。だけどそんな西岡がけっこう好きだ。彼のスタンスがもっとも世間一般に近いのではないだろうか。周囲の辞書に熱中する人たちと自分を比べて落ち込んでみたりするところなんて、チャラ男のくせにけなげだ。しかも陰ではかなりいい仕事をして辞書編集部を救っていたりするのだが、チャラ男ゆえにあまり評価されてない。せつない。

 彼らが作ろうとしているのが新しい辞書『大渡海』。しかしこの不況下、時間も金もかかる辞書編集部は冷遇され、この企画自体中止になるのではないかと噂される。定年の荒木から編集部と松本先生を託された馬締はこのピンチを切り抜けられるのか、そして辞書は完成するのか。そんな最中に恋までしてしまうのか馬締。

 で、さっそく辞書を引いてみるんですね。【恋愛】という見出し語を。そのときに馬締が見る辞書が『新明解国語辞典』なのです。ご存知の方も多いはず、そう、あの「新解さん」です。なつかしいなあ新解さん。むっちりしたイナゴをおやつに食べる新解さん。あ、でもいま店頭にある六版ではもうイナゴをおやつにはしてなかったなあ。すこし寂しい気もします。

 しかし辞書は版を重ねるごとに進化するのです。完成したときから改訂作業の始まりなんだそうです。だから同じ名前の辞書でも中身はどんどん変わっていくのです。そして新解さんも今年の12月に第七版が出るそうです。7年ぶりの改訂です。独特の語釈がどうなっているのか、どんな新しい言葉が収録されるのか、いまからとても楽しみです。

 この小説を読み急激に辞書の作り手に興味をもったので目についた辞書を何冊か見てみました。どの辞書にも序文もしくは後記といったものがあり、そこではその辞書を使うすべての人に向けて、辞書の作り手の熱い思いがほとばしっています。ぜひ手にとって読んでみてください。辞書がとても特別なものに思えてきます。

 本屋ではたびたび日本語ブームがやってきます。岩波新書『日本語練習帳』や草思社『声に出して読みたい日本語』、大修館書店『問題な日本語』などなど、ベストセラーも多いのです。それだけ言葉に関心をもつ人がたくさんいるのだなと思います。そんな方々にはぜひ読んでほしい小説です。

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喜久屋書店宇都宮店 大牧千佳子
喜久屋書店宇都宮店 大牧千佳子
本屋となっていつのまにやら20年。文芸書と文庫を担当しております。今の店に勤めて6年目。幼い頃、祖母とよく鳩に餌をやりにきていた二荒山神社の通りをはさんだ向かい側で働いております。風呂読が大好き。冬場の風呂読は至福の時間ですが、夢中になって気づくとお湯じゃなくなってたりしますね。ジャンルを問わずいろいろと、ページがあるならめくってみようっていう雑食型。先日、児童書担当ちゃんに小 学生の頃大好きだった児童書『オンネリとアンネリのおうち』(大日本図書版、絶版)をプレゼントされて感動。懐かしい本との再会というのは嬉しいものです。一人でも多くの方にそんな体験をしてほしいなあと思います。