『今を生きるための現代詩』渡邊十絲子
●今回の書評担当者●蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里
今月の20日をもって閉店する 「リブロ池袋本店」。そこでいま "ひと月限りの「ぽえむ・ぱろうる」"という、かつてリブロ池袋本店店内にあり、2006年に閉店した詩の本の専門店が、9年の時を経て期間限定で復活しています。
「ぽえむ・ぱろうる」ということばは忘れたことがありませんでした。不思議なことばです。20歳前後の頃、知らない言葉や知らない記憶にたくさん出会った場所でした。
最後にどうしても行きたく、6月中旬に訪れました。いただいた冊子にオープン時のことばが印刷されていました。1972年にまず「ぱるこ・ぱろうる」として出発した時のことばでした。
"ぱるこ・ぱろうる
それは言葉の公園である
それは言葉の生命そのものである
それは若い精神たちを豊かに彩る場所である"
(冊子より抜粋)
『詩』や『詩人』、ふだん知っている『ことば』とは違う言葉に溢れた空間は、いま思えば贅沢な空間でした。改めて考えると、その後わたしはその頃にくらべてすすんで『詩』を探しにはいかず、いつのまにか著者いわく「はぐれて」しまっていた気がします。
本書の著者、詩人である渡邊十絲子さんは、詩人です、と初対面の人に挨拶をすると、かけられる第一声が「わたしは詩はよくわかりません」。そんなことが何度もあるといいます。
『詩』はわからない 『詩』はむずかしい 『詩』はよく知らない
詩をすぐに解釈しようとしなければならない、問いにたいして答えなければならない。
そんな国語の教科書ではじめて詩と出会ったという日本人が大多数ではないか、と著者は考えます。
確かに教科書で出会い、なんとか解釈し、テストで問題に答えれば、はい、答えは違います。
ああ......やっぱり詩はわからない......。
そしてそのまま「詩からはぐれてしまう」人が大多数ではないかと。
そんな方に著者は伝えます。
「詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。」
本書は、著者が人生のおりおりに出会った忘れられない詩を、なぜ好きなのか、なぜ忘れられないのか、著者の中に発芽して二度と枯れることのないその芽をまっすぐに見つめています。
好きだと感じた瞬間に言葉にして説明できなかった想いを、何十年もたったいま、懸命にさぐり文章がつづられていきます。それは詩の紹介本とは違う胸へのせまりかたです。
そして見つけた宝物のような『詩人』や『詩篇』をおしげもなく読者におしえ、さらに、こっちですよ、こちらですよ、と、誰かにとっての光となるような『詩篇』を探しに行く道すじをおしえてくれます。
14歳にして『詩』をさがしはじめた著者は、黒田喜夫や入沢康夫といった詩人に出会います。「手垢のついたありきたりな情緒にわたしをはめこむような、こずるい」詩ではない詩に。
詩はくりかえしくりかえし読めて、しかも著者は出会った詩の「根源的な恐怖をうまく言い当てられず、」「読み終わらないことの幸福がそこにある。」といいます。
詩のすごさがそこにあります。ことばを選び出し、削りだしていった詩人の根っこを、50年以上たっても噛み続ることができるのだ、と。
こうして一編の詩から得た驚き、興奮、高鳴りといった著者の感情的体験を、一緒に追体験しながらくり返し伝えてくれます。「詩がわからないということを否定的にとらえないこと。」「すべての人には「まだわからないでいる」権利がある。」
安東次男との出会いからは、日本語で組みたてる詩について考えます。
普段あたりまえのように、漢字、ひらがな、カタカナ、のまじった言葉をつかっているが、英語は表記はアルファベットのみ。英語では rose のみだが、日本語では、薔薇、ばら、バラ、と表記する文字を選びとらなければならない。その日本語ならではの特殊さ。
「日本語は音声言語としてはきわめて貧弱であり、ということは、視覚情報におおきくよりかかった言語なのである。」視覚から異なる印象を与えることでかたちづくられる『詩』の世界への入り口を教えてくれます。
川田絢音との出会いからは『詩』のもつ孤独を教えてくれます。
「なぜかはわからないが、自分が一生こころに刻んでおくべきもの、けっして忘れたくないものとしての孤独感。それを詩のかたちにして書いた人をわたしは見つけたのだった。」「力や名声や「あたたかい家庭」や、ふつうの人が財産だと思うようなものから決定的にはぐれている。身体ひとつの女がどんなに強靭なことばにたどりつくか。」と、とりわけ力強く著者は川田絢音さんの詩について語ります。
わたしが本書でいちばん読みたいと思ったのもこの方でした。
『詩』はひりひりと心臓の近くを通過する『ことば』だからか、わたしにとって『詩』は、どんなにつらいときでも読むことのできる『ことば』の集合体でした。
本書を読み、まだまだ対峙したい『詩』が『ことば』がたくさんあるのだと、そしてそれは、わからないものは死ぬまでわからなくてもいいのだと、「どうしても理解しきれない余白の存在を認め」て、不安定にゆらいだ詩も読みすすめてごらん、とそんな道を指し示してもらいました。
「詩とは、ただ純粋な「ことば」である。」
「ぽえむ・ぱろうる」がひと月限りだとしても復活したのだから。
『詩』とはいくつになってもいつでも出会えて、自分にとってこぼれる金色の光のような『詩』は、手をのばし、目をこらせば、見る力をつければ、そばにいるのだ。
- 『真夜中の庭』植田実 (2015年6月11日更新)
- 『口笛を吹きながら本を売る』石橋毅史 (2015年5月14日更新)
- 蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里
- 1971年東京生まれ。学生の頃は本屋さんは有隣堂と久美堂が。古本屋さんは町田の高原書店と今はなきりら書店がお気に入りでした。子どもも立派なマンガ好きに育ち、現在の枕元本は、有間しのぶさんに入江喜和さん、イムリにキングダムに耳かきお蝶・・とほくほく。夫のここ数年の口ぐせは、「リビングと階段には本を置かないって約束したよね?」「古本屋開くの?」「ゴリラって血液型、B型なんだって」 B型です。