『アート・スピリット』ロバート・ヘンライ
●今回の書評担当者●蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里
"好きなように眺めてかまわない
役に立つと思えば、ざっとスケッチしてもらってもいい
まったく反対の行動をとりたくなっても、かまわない
本書の主題は美であるーまたは幸福といってもいい
美や幸福にいたる道筋は一つではない"
今から約90年前の1923年が初版の、本書『ART SPIRIT アート・スピリット』。
作者は当時アメリカで人気画家でもあり美術教師でもあったというロバート・ヘンライ(1865~1929)です。上記の文章はヘンライによる本書の"使用説明"ともいえるはしがきからの抜粋になります。ヘンライの23年分のノートと書簡をまとめたという、この美術講義録でもある一冊は、目次だけを見れば「色彩について」「立体感について」「筆使いについて」と、芸術家や画学生を対象とした書籍のように思われます。でも目次はこう続き、哲学書のような様相をみせます。「自分自身を見出すこと」「動機について」「情熱について」「一人ぼっちで寒さに耐えること」。
滝本誠さんの解説によれば、デイヴィッド・リンチは美術を誰に教わった? との問いに「最初に会った重要な教師にロバート・ヘンライの『アート・スピリット』を読むように強く勧められ、その本はバイブルのようなものとなった。というのはこの本はアート・ライフの規範を定めていたからだ。」と本書に魅了されたことを語っています。画家キース・へリングもインタビューで「この本はぼくの人生をすっかり変えてしまった」と答え、十代の頃画家になりたかった作家のピート・ハミルも、「私はそれを夢中になってむさぼり読んだ」と語っています。今でも名を残す三人の言葉だけで、90年たっても読み継がれてきた、その理由がよくわかります。
"好きなように眺めてかまわない"とはしがきでいうように、本書は長い読み物の形式ではなく、ヘンライの言葉が一行だったり数ページだったりといくつかの固まりにになり、いわく"分厚い索引のような"本になっています。ピンで留められた蝶の標本のような言葉たち。こちらはそこからお気に入りの蝶を選ぶように言葉を選び、しばらく眺めたり、別の箇所にとめたり。そして標本と思っていると蝶は羽ばたきだし、後を追うとその蝶=言葉は、目が痛いほど眩しい空の下や、むかし見たことのあるような場所や、ほの暗い穴の中へとこちらを導きます。
以前自分が画学生だったころ、はじめの頃の絵を描く衝動を忘れて、ただ課題の絵をこなし、対象を見つめることもせずに、こうみせるにはこういった技法、と、振り返ればそんなことばかりに気をとられていました。そのころの自分に聞かせたい言葉も、たくさん本書には出てきます。
"巨匠たちの作品の根底にある基本原則。それは判断力を培うこと、試行錯誤を恐れないパワー、途方もない集中力、対象への敬意などである。"
"できの悪い作品でもつづけることを恥じてはいけない。どっちにしろ、それも自分のしたことなのだ。恥じていると、人は時間をかけて絵具を塗ることを早々にあきらめ、雑なところを隠そうとしてしまう。"
"できるかぎり遠くまで行きなさい。勉強に精を出し、失敗を恐れずつづけていけば、いつかきっと、それまでずっと求めてきた質の高い絵が描けるだろう。"
絵や絵具といった言葉を、その人が出逢った没頭する世界、例えば音楽やスポーツ、小説や科学、将棋や料理や......言葉の世界や数の世界......。そういった自分の世界の言葉に置き換えると、そこへの向き合い方が薄れたとき、静かな炎で焚きつけてくれるような言葉がならんでいます。
心に湧く強い衝動。こうしてはいられないとういう気持ち。はやく、自分のしなければいけないことをやらなければ! ただただ、やらなければならない! と感じる強い衝動を、私は何度も本書を読んでいて感じました。ヘンライは、自己表現したいという衝動に駆られて絵を描く学生たちを、当時たくさん育てたのではないかと思います。本書の内容をヘンライ自身がどんな声で、どんなじぐさで語ったのだろう......。いろいろな展覧会や画集が誰でも見れる環境ではなく、絵画の知識もままならなかった時代に、ただただ純粋に美術を語るヘンライに触発された学生たちは、どんな絵を描いたのだろうと考えます。
"あらゆる人間のなかに芸術家がいる。人は誰もが自分の成長の結果と人生に対する捉え方を表現する機会を同じようにもっている。" "人生とは自分を見出すことだ。それは魂の成長である。"
ヘンライのこの本は日本では国書刊行会より2011年8月に出版されました。アメリカで出版されてから80年たってからの本邦初訳。私の手もとにあるものは11月発行の第4刷です。2ヶ月で4刷。幻の名著の邦訳、と待っていた方も多かったのが伺えます。
ヘンライは芸術や美術(アート)と、人生との密接な関連性を信じていました。芸術は自分と無縁のものではなく特別なものでもないという考え方が身近になれば、われわれはもっと幸せになるだろう、と。絵を描く作業は非常に孤独な作業であり、それは小説を書くにしても、スポーツを極めるにしても、ひとつの物事をつきつめていく過程、孤独の時間は、人に考えるという作業をもたらせてくれます。人は考えることにより成長します。繰り返し繰り返し、"自分で自分を育てよ"というヘンライは、考えろ、考えろと思考することの大切さを説いているようです。
"今日が昨日の思い出であってはいけない。今日の私はいったい何者なのか? 今日の私は何を見るのか? 自分の知識をどのように活かすべきか? 知識の奴隷にならないようにするには、何をなすべきか? 人生は繰り返しではない。"本書を読み、まったく反対の行動をとりたくなっても、かまわないといったヘンライ。美や幸福にいたる道筋は一つではない、と決して考えは一つではないと説くヘンライ。
思考の果てをさぐる旅への標識のような、真っ赤な美しいバイブルです。
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- 蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里
- 1971年東京生まれ。学生の頃は本屋さんは有隣堂と久美堂が。古本屋さんは町田の高原書店と今はなきりら書店がお気に入りでした。子どもも立派なマンガ好きに育ち、現在の枕元本は、有間しのぶさんに入江喜和さん、イムリにキングダムに耳かきお蝶・・とほくほく。夫のここ数年の口ぐせは、「リビングと階段には本を置かないって約束したよね?」「古本屋開くの?」「ゴリラって血液型、B型なんだって」 B型です。