『村田エフェンディ滞土録』梨木香歩

●今回の書評担当者●丸善津田沼店  酒井七海

  • 村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)
  • 『村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)』
    梨木 香歩
    角川書店
    518円(税込)
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「ムハンマドが通りで鸚鵡を拾った。」

 この冒頭の一文にすっかりやられてしまった私は、その日1日ぶつぶつと呪文のようにその文句をくりかえしてしまったのだった。

 気になる続きはこうだ。

「市場へと下る途中の坂道で、下手から坂を上ってくるその鸚鵡と目が合い、思わず持っていた麻袋を被せてそのまま屋敷に持ち帰ったのだ。」

 それ、拾ったというか、誘拐では......という疑問はとりあえずおいといて、いったん読み出したらどうにもとまらなくなった。

 ページをめくるたびにのめりこみ、読み終わって驚いた。
 私はすっかり登場人物と別れるのがいやになり、本を閉じるのがつらくなってしまっていた。

 時は1899年の土耳古(トルコ)考古学を学ぶため留学した村田君のお話。
 下宿先には国も宗教も違う5人の人たちが。イギリス人のディクソン夫人は敬虔なキリスト教徒、ドイツからの留学生オットーもやはりクリスチャン。トルコのおとなりギリシアからの留学生はギリシャ正教のディミトリス、そしてトルコ人回教徒のムハンマド。日本より仏教徒(強いて言えば)の村田。それから鸚鵡なのであります。

 彼らのやりとりは、そのまま国同士の関係とも通じる。たとえば、トルコのムハンマドとギリシャのディミトリスはなんとなく仲が悪い。お互い言い争ったりするわけではないのに、話をすること自体をさけている。わかり合おうとしたくない。そんなふうにも見えた。

 それからディクソン夫人はオットー以外の人たちのことを、哀れみをふくんだ愛情で包んでいて、どこか上からものを見ている。そこには一方的な慈悲があり、対等さは見えない。一方ムハンマドは異教徒を異教徒として区別するものの、見上げたり見下げたりはせず、対等に見ていた。よく宗教観や国民性が映し出されていると思った。

 それでも、ここにいる人たちに悪気はないし、みんながそういうものだと受け入れている懐の深さがあった。

 古いもの(遺跡やそこからでてくる太古の品物)を介してつながる、いにしえからの大きなループが5人を結びつけている空気があったように思う。
 本当に古いものというのは、なんであれ特別な気配をたもっているもの。そんな気配がこの家には流れていた。

 5人が5人それぞれにとても魅力的であったし、大げさにはしないけれど裏側にはしっかりと友情があり「革命だ!」「友よ!」などのけったいなことばを話す鸚鵡がさらに色をつなぐ。

 物語は佳境に入るにつれ、革命の渦、戦争の渦にのみこまれていくが、文中にでてくるテレンティウスの言葉「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない。」この言葉がひとつの核となっている。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」とマザーテレサも言う。

 それぞれがそれぞれの愛や忠義をつくし生きていくラストは、人間の愚かさだとか無力さだとか、そういうものを持ったままなおかつ清々しい悲しみに満ちていてせつなかった。

 運命とは時にどうしてこんなにも残酷なのだろう。
 想うこと、わたしにはそれだけしかできないようだった。

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丸善津田沼店  酒井七海
丸善津田沼店  酒井七海
書店員歴やっと2年の新米でございます。本屋に勤める前は、バンド やったり旅 したりバンドやったり旅したりして、まぁようするに人生ぶらぶらしておりました。とりもどすべく、今は大変まじめに働いております!本を読む ことは人生で 2番目に好きです。1番目は音楽を聴くことです。音楽と本とときどきお酒があればだいたい幸せです。