『怪奇小説という題名の怪奇小説』都筑道夫
●今回の書評担当者●中目黒ブックセンター 佐藤亜希子
気がつけばもう12月。シーザー(※『ジョジョの奇妙な冒険』第二部より)の追悼をしているうちに、2014年の終わりが見えてきてしまった。
過ぎ去っていく日々の中で、ふと立ち止まり、思いを過去へと馳せたとき、時の流れのあまりの早さに眩暈を起こしそうになる。あのとき私はなにをしていたのか。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのか。繋がることのない飛び飛びの記憶は、ある地点から今この瞬間を誰かが無理矢理結びつけてしまったのではないかという荒唐無稽な疑いを抱かせる。
ふらふらと、まるで酒をしこたま飲んだ次の日のような酩酊感を覚えながら、そういえば、と思う。そういえば、なにかの本を読んでいるときにこれとよく似た感覚を味わった気がする。一年前のことすらろくに思い出せない記憶を探っていると、突然脳裏に水色の表紙が浮かんだ。爽やかな水色。なのに、じっと見ていると心がざわついてくる水色。そこには、『怪奇小説という題名の怪奇小説』と書いてあった。
『怪奇小説という題名の怪奇小説』は、ミステリ、時代小説、怪談、SF、翻訳に評論など、多方面に渡りご活躍なされた都築道夫氏の、言わずもがな怪奇小説である。"*第一章では、私はなにを書くか、迷いに迷って、題名もつけられない"という一文から始まる本作品は、一言で言ってしまえば、超自然の恐怖を扱った長編小説の執筆依頼を受けた作家が、あれよあれよという間に奇妙な世界に紛れ込んでしまう物語だ。
とはいえ、これ以上、細かく説明しようがない。まず、私たち読者は題名もつけられずにいる一章目で、執筆が思うようにうまくいかず、そもそも恐怖小説とはどんなものなのかと原点に立ち戻った作家の思考の海に捕らわれる。そこでは、作家自身が遠い昔に体験した話、以前訳したジョン・スタインベックの短編作品などが飛び交い、なるほど、執筆に行き詰った作家とはこのような混沌に陥るのかとエッセイよりも生々しい、脳内をそのまま眺めているような気分で一章を読み終える。
だが、"第二章 盗作のすすめ"と名付けられた二章目の一文目を読んだ途端、おや、と思うはずだ。歩き慣れた道を進んでいたはずなのに、何故か全く知らない場所に出てしまったときのような不安と、ほんの少しの怯えと、それとは矛盾した好奇心が一斉に押し寄せてくる。──これは、やばい。本書を初めて読んだとき、両腕に鳥肌を立てながら抱いた感想である。
作家はプロットを練るために彷徨っていた街中で、死んだ従姉によく似た女性を見かけ、彼女の正体を追い求めるうちに、平穏な日常からどんどんと足を踏み外していく。一体どこが境界線だったのか、彼にも私にもわからない。その曖昧さにこそ、怪奇小説の醍醐味がある。本書の解説(これまた素晴らしい解説なので、ぜひ読んでいただきたい)を書かれた道尾秀介さんが引用している湯川秀樹さんの"無理に目鼻をつけようとするな、混沌が死ぬ。"との言葉からも感じ取れるように、怪奇小説を前に謎を解こうとするのは無粋な行為なのだ。
灰色のものを白とも黒ともせず、灰色のままにしておく。原因も対処法もないのだから、恐怖を覚える人も、不快に感じる人もいるかもしれない。けれど、それに快感を覚えてしまった人間、──私のような者は一生怪奇という灰色の世界から逃れることはできないのだとつくづく思い知らされる一冊である。
まぁ、怪奇の呪縛からは抜け出せないとしても、時間の流れを異様に早く感じるのは超常現象でもなんでもなく、ただ年をとったせいだと認める潔さは身につけたほうがいいだろう。
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- 中目黒ブックセンター 佐藤亜希子
- 自他共に認める熱しやすく冷めやすい鉄人間(メンタルの脆さは豆腐以下)。人でも遊びでも興味をもつとす ぐのめりこむものの、周囲が認知し始めた頃には飽きていることもしばしば。だが、何故か奈良と古代魚と怪奇小説への愛は冷めない。書店勤務も6年目にな り、音響専門学校を卒業してから職を転々としていた時期を思い返しては私も成長したもんだなと自画自賛する日々を送っている。もふもふしたものと チョコを与えておけば大体ご機嫌。