『蜘蛛』遠藤周作

●今回の書評担当者●中目黒ブックセンター 佐藤亜希子

 新本を取り扱う書店員が力説することでもないが、古書店を物色するのは楽しい。休日の前夜、明日は丸一日神保町を練り歩こうと素晴らしい意気込みをもって眠りに就くも、目を覚ましてみると何故か陽がとっぷりと沈んでいることがここ最近多すぎるので、たまに仕事終わりに近所のブックオフに寄って、またもや貴重な休日を無駄にしてしまったとしょぼくれる一方の気持ちに僅かながらの癒しを与えている。本屋to本屋。そんなに本が好きならもっと読めよと私は私を叱りつけたい。

 もう何年前になるか忘れてしまったが、遠藤周作氏の『怪奇小説集』(講談社文庫)と出会ったのもやはり件のブックオフだった。恥ずかしながら、遠藤周作という作家の名前は知っていても、作品は一度も読んだことがなかった自分がその本に惹かれた理由は言うまでもない、怪奇の一言がタイトルに入っていたからだ。純文学、文豪といった言葉を見たり聞いたりするだけで、むやみやたらに謝りたくなる私を即座にレジへと向かわせるのだから、怪奇とは魔性の二文字である。

 結論から言ってしまえば当たりだった。当たりも当たり、大当たりだ。

"怪談といっても、ぼくは本当に幽霊が実在しているのか、どうか、未だにわからないのだ"という、幽霊肯定派ではない作者が体験した怪異譚『三つの幽霊』から始まるこの短編集は出だしから私の心をざわつかせ、次の『蜘蛛』、『黒痣』の二作品の流れでかっつりと鷲掴みにした。堅苦しい文章ばかりが続いたらどうしようと不安だったことも忘れ(実際とても読みやすい)、そこから続く心理サスペンスもの、苦笑を浮かべざるを得ないブラックジョークものなど、多岐に渡る奇妙な話を無我夢中で貪り読んだ。

 目新しい怪異も起こらなければ、恐ろしい化け物に対面するわけでもない。なのに、ぞわぞわと肌が粟立ち、良質な怖気が込み上げてきてにやついてしまうのは何故なのか。あのときは夢中になりすぎて考えようともしなかったけれど、数年ぶりに読み直してみてわかった。臨場感だ。作者の留学先で、いくつかの作品の舞台にもなっているリヨンの街の空気、冬の夜に街全体を包んでしまう霧の重々しさ、雨の中、走るタクシーの車内に漂う生臭い匂い、熱海の宿での寝苦しさ、耳元で囁く男の声。それらを一切知らない私にまで的確に伝わってくるのだ。自分が体験した過去として知っている気にさせ、全身を震わせるのだ。

 恐怖とは慣れるもの。どれだけ優れた作品でも最初に感じた新鮮な恐怖と同じものを次に味わうことはできない、そう思ってきた。けれど、今、私は数年前とまるっきり同じように怯え、興奮している。あぁ、好きだ。たまらない。あまりの昂ぶりに思わず涙が滲んできているのは年のせいでも、年末にひいた風邪をこじらせて未だに治らず朦朧としているせいでもないだろう。

 と、ここまで絶賛しておいてこんなことを言うのは大変心苦しいのだが、この『怪奇小説集』、実は現在絶版である。しかし、ご安心あれ。『怪奇小説集』、それに続く『第二怪奇小説集』に掲載されていた作品(一部除く)と、現在では入手不可の作品など全21話収録した、とにかく豪華の一言に尽きる一冊が刊行されている。前置きが長すぎるどころか、前置きで終わる事実に愕然としているが、それが今回ご紹介する『ふしぎ文学館 蜘蛛』(出版芸術社)だ。

 このふしぎ文学館シリーズ、本作に限らず奇妙な物語好きにとっては垂涎もののシリーズで全巻揃えたいところだが、財布の中身がいつも覚束ない人間にはなかなか難しい。なので今年一年、大金が入った鞄を拾うことを念頭に置いて生きていこうと思う。

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中目黒ブックセンター 佐藤亜希子
中目黒ブックセンター 佐藤亜希子
自他共に認める熱しやすく冷めやすい鉄人間(メンタルの脆さは豆腐以下)。人でも遊びでも興味をもつとす ぐのめりこむものの、周囲が認知し始めた頃には飽きていることもしばしば。だが、何故か奈良と古代魚と怪奇小説への愛は冷めない。書店勤務も6年目にな り、音響専門学校を卒業してから職を転々としていた時期を思い返しては私も成長したもんだなと自画自賛する日々を送っている。もふもふしたものと チョコを与えておけば大体ご機嫌。