『イヌ どのようにして人間の友になったか』ジョン・C・マクローリン
●今回の書評担当者●進駸堂中久喜本店 鈴木毅
最近は猫ブームである。
猫も杓子もネコねこ猫なのである。
昔、ペットの主役は犬であったのに。
犬は、散歩という飼い主と飼い犬とのコミュニケーションが不可欠であり、また同じく犬を散歩しているご近所さんとの出会うと、「かわいいワンちゃんですこと」「あら、お宅さんのワンちゃんも素敵ですこと」「オホホホ」なんつって、古来より愛犬自慢は散歩という社交場で取り交わされていた。
片や飼い猫はあまり飼い主が散歩をしない。近所で飼い猫を見せ合うこともまずしなかったし、飼い猫を自宅から出さないという場合もある。
僕の実家は飼い猫「フサ」を外に出すので、鳥とか虫とかを咥えて玄関まえに誇らしげに置いたり、向かいのお家で「マイケル」と呼ばれていて餌をもらっていたりした。
そんな猫は、昔は可愛さはシェアするものでなく、自分だけが飼い猫を猫かわいがりするのものだったのだが、インターネット、特にSNSの利用者が増えるに従って猫の素晴らしさが多くの人に知られてしまった。そうしてペット界のトップに猫は躍り出たのである。
今や「そうだニャン」といった語尾ニャンの使用が増え、「そうだワン」の語尾ワンはめっきり見なくなってしまった。
それでいいのか犬。
それでいいのか犬派の人たちよ。
ということで連載最終回はズバリ犬にまつわるいつかの作品を好き勝手に紹介したい。
『イヌ どのようにして人間の友になったか』(J・C・マクローリン著・画/澤崎担訳 /講談社学術文庫)は、人間と唯一同盟を結んだ犬の歴史を解説した本である。
犬と人間の共同生活は5万年前から続いている。犬が家族や集団で行動する社会性豊かな動物で、自らを育ててくれた者に対して愛情を示す生き物であると改めて知ることに素直に感動してしまう。そう、飼い主が犬にかけた愛情の分だけ、犬は愛情を返してくれる。人間と感情の交感ができる生き物である犬は、人類の唯一の友なのである。
また、本書は犬の本性についても気づかせてくれる。忘れてはならないのが、犬は肉食獣なのである。そして自分より大きな獲物を狩ることができる数少ない動物で、人間と同じく大型の獲物に対して集団狩猟を行う。狩猟の際は個々に役割があり、統制して狩猟を行う意味で、人間との共通点が見出される。野生の犬の登場から人間社会で共生するようになるまでの犬の歴史は、知らないことだらけであり、知的興奮を得られる本である。
道具としての犬。パートナーとしての犬。
人間は、生きた道具として役割に特化した犬種を長い年月をかけて交配し作り出してきたが、多くは人間を攻撃する目的としたものが多いというのがなんとも悲しい。 例えば今日「ライオン狩り用の犬」として有名なローデシアン・リッジバックはアフリカ植民地でヨーロッパ人の居住地をパトロールし、アフリカ原住民を追い払うために交配してつくられた。また、ドーベルマンはドイツのルートヴィッヒ・ドーベルマンが完璧な警察犬、警備犬を作り出そうとしたライフワークの結晶で、神経質な上、縄張りに対する執着心も強く、人間相手に戦うには理想的に作られた。人間に掴まれ難くするために、仔犬の時に尻尾と耳を短く切ってしまうという徹底ぶりである。
人間を襲う犬といえば、訓練された戦闘犬が登場する漫画『MASTERキートン』(浦沢直樹/小学館)の第4巻「長く暑い日」が思い出される。 主人公のキートンが特殊戦闘犬として訓練された犬に命を狙われる話で、ベトナム戦争中、暗視装置がなかった短期間、夜間に敵を攻撃するために訓練された特殊戦闘犬が登場する。「人間は絶対訓練された犬にはかなわない!」というキートンの言葉が強く印象に残る。また、キートンの子どものころの子犬とのエピードが重ねられ、父であり動物学者の太平の「犬は地上最強なんだよ」という言葉と合わせて、犬への畏怖と敬意を感じさせる傑作エピソードである。ちなみにヨーロッパで最も暑い日をDogdaysと言う。
そういえば、『MASTERキートン』では、他に「天使の両翼」という警官と警察犬コンビのエピソードもあった。
警官と警察犬のコンビといえば、『容疑者』(ロバート・クレイス著/高橋恭美子訳/創元推理文庫)も面白い。
ロス市警の刑事スコットは銃撃で相棒を失い、アフガニスタンに派兵された爆発物探知犬マギーは指導手(ハンドラー)を戦闘で失う。心身ともに傷ついたスコットと、戦闘によりPTSD(心的外傷後ストレス障害)になったマギーが、ロス市警の警察犬隊で出会い、共に事件解決に向かうという話。スコットと相棒のマギーの両者が捜査によって信頼関係を築き、お互いの傷を癒していく話に涙が止まらなくなる。
ほかに人と犬コンビではハーラン・エリスンのSF『少年と犬』(『世界の中心で愛を叫んだけもの』所収/ハヤカワ文庫)が異色。第三次世界大戦後の荒廃した世界で生きる少年ヴィクとテレパシーで言葉を交わす犬のブラッド。ブラッドの文明的な知性と毒舌ぶりと、食欲と性欲と暴力だけの本能のみで動くヴィクとの人獣逆転したコンビが面白い。ラストの一文は、しばし何が起こったのかわからなくなるほどの衝撃である。
本作は1975年に同タイトルで映画化もされた。映画は第四次世界大戦後という設定で、冒頭から核爆発のキノコ雲から始まるが、ストーリーはほぼ原作に忠実で、後半のディストピア描写こそ映画的に強調されているが、衝撃のラストやブラジャーをつける方法の描写まで原作と同じである。主演であるヴィク役の若かりしドン・ジョンソンと、犬のブラッドの可愛らしさとは裏腹な低音なボイスがとても魅力的なのでぜひ見てもらいたい映画である。
"(イヌは)最後まで人間と一緒に生活していける哺乳動物と言える" (『イヌ どのようにして人間の友になったか』より)
映画『少年と犬』での文明崩壊後の荒野に人間と犬というイメージはその後、『マッドマックス2』('81)に受け継がれ、『ターミネーター』('84)では、機械と人間との戦争で荒廃した未来で、人間に紛れ込んだサーボーグを見破るのが犬だったりする。リチャード・マシスンの『地球最後の男』を大胆かつ最悪にアレンジしたウィル・スミス主演の映画『アイ・アム・レジェンド』('07)には地球で最後の人間となった主人公の相棒としてサムという犬がいた。僕はサムが亡くなるシーンで泣き、ラストのオチで怒り狂ったのは言うまでもない。
こうした犬が死ぬシーンに僕は弱い。というのはどうしても感情を揺さぶる出来事で、"妻や夫を殺された"ことに恨まない人もいるかもしれないが、ペットを殺された恨みは年齢性別を問わず普遍であるとも思うのだ。
そんなペットの復讐劇として最近では、映画『ジョン・ウィック』('15)がある。キアヌ・リーブス扮するジョン・ウィックは妻に先立たれ失意のどん底にいたが、妻が残した子犬ディジーによって徐々に心の傷を癒していく。しかしある日強盗に入られ愛犬ディジーが目の前で殺されてしまう。強盗が誤算だったのは、怒らせたジョン・ウィックは裏社会でトップクラスの殺し屋であった。果たして愛犬ディジーの仇を討つためにジョン・ウィックの復讐が始まる!という、最近のキアヌ・リーブス作品では傑作であるが、後半あまりディジーのことが関係なくなっていくのだが、まあよしとしよう。同じく殺された愛犬の仇という話ではジャック・ケッチャムの『老人と犬』(扶桑社ミステリー文庫)が同著者の中でも出色の出来である。少年たちに遊び半分で愛犬を殺された老人が、少年たちの裁きを求めるために行動を始めると言った話で、ホラー作家、バイオレンス作家のイメージが強いケッチャム作品の中でも、本作はあまり凄惨な描写は多くない。どちらかというと少年たちの非道な行いへの裁きを求める難しさを描いており、珍しく社会派小説となっている。と言っても「やはりケッチャムだなぁという」ラストなんだけど。
孤独や傷ついた人間に寄り添う犬の姿はとても愛おしい。
デニス・ルヘインの『ザ・ドロップ』(加賀山卓朗訳/ハヤカワポケットミステリー)はボストンのバーでバーテンダーをしている孤独なボブが、傷ついた仔犬を拾ったことからドラマが始まる犯罪小説。
「ドロップ」とは、マフィアが警察の目を逃れるために一時的に金を保管する場所であり、主人公ボブの働くバーがその役目を負っている。ロッコと名付けた仔犬の世話を不器用にこなす朴訥としたボブの微笑ましさと、犬との出会いで生活に目的を得た男の物語はデニス・ルヘインの巧さが光る傑作。日本では未公開ながら2014年にアメリカで映画化もされている。映画では舞台がニューヨークに変わっているが、主人公ボブを『マッドマックス 怒りのデスロード』のトム・ハーディが演じ朴訥したボブのイメージそのままで、従兄弟のマーヴ役として『ソプラノズ』の演技が印象的だったジェームズ・ガンドルフィーニが演じているが、残念ながら本作が遺作となった。かなり渋い映画だが、後年までオススメできる名作と言っていい作品である。近日『クライム・ヒート』という邦題で国内ソフト化されるらしいのでチェックしてみてほしい。
映画『アーティスト』('11)というサイレント映画に登場するジャックラッセルテリアのアギーは劇中の演技がとても愛くるしい。サイレント映画の大スターだったジャン・デュジャルダン演じるジョージが、トーキー映画の時代を迎え、自分が時代遅れとなったことに絶望し自殺しようとするシーンで、ジョージを必死に止めようとするアギーの姿が、もう、たまらなく愛おしい。犬俳優としてこの映画で一躍スターの仲間入りを果たしアギーには、人々から「犬にもアカデミー賞を」という声が上がり、映画などエンタテインメント界で活躍した人物が一般から選ばれて手形を残すハリウッド・ロード・ウォーク・フェイムには、動物として初めて足型を残した犬でもある。 フランスのカンヌ国際映画祭では、2001年から素晴らしい演技をした犬に贈られる賞として「パルムドッグ賞」があり、アギーは見事本作で受賞している。
この「パルムドッグ賞」を受賞した映画では、『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』('14)が壮観。ハンガリー・ドイツ・スウェーデン合作の本作は、同映画祭で「ある視点」部門と合わせて二冠を獲得したが、「パルムドッグ賞」を受賞したのはなんと250匹もの犬たち。 本作は、少女と飼い犬のハーゲンが引きさかれ、ハーゲンが多くの犬とともに人間への反乱を開始するという、話だけ聞くと「猿の惑星 創世記」ならぬ「犬の惑星」みたいに思ってしまうが、さにあらず。野良犬は情け容赦なく捕獲され、飼われている犬でも雑種には税金がかけられる。また人間は身勝手に犬に凄惨な闘犬の訓練を施す。そうした人間への犬の復讐劇であり、実際に250匹の犬が登場するクライマックスは圧巻である。この映画は、犬=被差別者という寓話であり、監督のインタビューでは、ヨーロッパにおける移民問題、差別、優生思想、そしてそれらが決起することへの支配者層の潜在的恐怖をも含んでいるという。また、人間の傲慢さに対し、友である犬だからこその戒めという側面も読み取ることができるような独創的でユニークな映画である。この映画には、少女に飼われていたハーゲンが外界で犬本来の野生が芽生えていき、少女との距離感が開いていく。
ペットでしか犬と接したことのない僕は、人と犬とが庇護者と被庇護者という関係でなく、両者がニュートラルである距離感がたまらなく新鮮であった。
人と犬との距離感。
ジャック・ロンドンの『野生の呼び声』(深町眞理子訳/光文社古典新訳文庫)に登場する犬のバックは判事の屋敷で王として振舞っていたものの、使用人に売られ、アラスカの雪原でそり犬として働くうちに野生に目覚めていくという話で、ここには人と犬との関係は愛情ではなく仕事としての主従だけである。そんなジャック・ロンドン作品のなかで、僕が墓まで持って行こうと決めている強く思い入れのある一冊が『火を熾す』(柴田元幸訳/スイッチパブリッシング)という短篇集である。
表題作は、零下75℃の極寒のアラスカのなかで男一人が立ち往生する話であるが、そのなかで1匹のエスキモー犬が登場する。この犬は名前もなく、男とはなんの関わりももたないが、離れた位置から男を観察する。本能的にこのとてつもない寒さが危険だと知っている犬は、男についていけば、野営地に辿り着くか焚き火をするであろうと知っているのだ。 生存本能によって、人間に依存でなく利用するという、この人とイヌの対等な距離感の描き方がとても素晴らしい。
その昔、学校から野良犬に注意という話があった。昔は野良犬も多かったが、今はあまり見かけなくなった。犬が一匹でいるだけでも珍しくなった。里親募集告知など、ネットや公共の場で犬の飼い主を募集する場も増えて捨てられる犬も減ったのかもしれない。 そんな里親募集で両親が貰ってきた犬が僕の実家にいる。 体長1mもある中型犬なのに、室内で飼われていて、リビングのソファが縄張りである。そこに人間には一切座らせてくれない。垂れ下がった耳は僕の言うことなど聞く耳ではないかのように無視を決め込む。せっかく散歩に連れて行っても、好き勝手の方向へ僕が引っ張れている。この距離感は僕の望んでいる距離感とはだいぶ違うようである。
そんな生意気な犬だが、たまに実家に顔をだすと、全身で嬉しさを表し、笑顔で歓待してくれる。 笑顔。 そう犬には表情があるのだ。 この瞬間、なんとも嬉しい気分にさせてくれるのは、犬の素晴らしさなのだろうと思う。 けどソファには座らせてくれない。
長い間、犬が人間の友であるのは、表情で感情を交わすことができる唯一の動物だからかもしれないワン。
- 『災害ユートピア』レベッカ・ソルニット (2016年3月3日更新)
- 『もうひとつのプロ野球』石原豊一 (2016年2月4日更新)
- 『ステーション・イレブン』エミリー・セントジョン・マンデル (2016年1月7日更新)
- 進駸堂中久喜本店 鈴木毅
- 1974年栃木県生まれ。読書は外文、映画は洋画、釣りは洋式毛バリの海外かぶれ。世間が振り向かないものを専門にして生き残りをかけるニッチ至 上主義者。洋式毛バリ釣りの専門誌『月刊FlyFisher』(つり人社)にてなぜか本と映画のコラムを連載してます。