『春は馬車に乗って』横光利一

●今回の書評担当者●八重洲ブックセンター八重洲本店 内田俊明

  • 機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)
  • 『機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)』
    横光 利一
    新潮社
    594円(税込)
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 妻の死を目前にした若い夫婦は、何を考えるのか。その姿を正面から描いたふたつの文芸作品を、読み比べてみた。

 多彩な作品をのこした横光利一の、もっとも読みやすく情緒的な一編が「春は馬車に乗って」である。海の見える家で暮らす夫婦の物語。妻は肺病で一年以上床に伏せっており、物書きをしている夫の看病をうけている。夫は妻が元気だったころから、その愛情を過剰と捉えており、辟易させられてきたと思っているようだ。物語後半、妻が弱ってきてから、痰を吸引したり汗を拭いたりしながら、彼は次のように思う。

 彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、寧ろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。

 ──これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。
彼はこの解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。

「すがっているより仕方がない。」
 というところに妻への愛情を感じはするが、かなり冷酷な印象の言葉だ。いっぽう妻は妻で、次のように言う。

「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有難いと思わないわ」 「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ」 「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの」

 互いに言いたいことを言いあっている。死を目前にしてなお、というより、死を目前にしているからこその自由が、ここにはある。自由をつくしたからこそ、結末近くに「今は、二人は完全に死の準備をして了った。もう何事が起ろうとも恐がるものはなくなった。

 と語られ、美しいラストシーンにつながっていくのである。この夫婦にとっての理想の結末が、ここにはある。

 では現在の世の中で、死に自由はあるのか。

 山崎ナオコーラ『美しい距離』は、今の日本で若い妻と夫が死に直面したらどうなるのかを、丁寧につきつめて描いた作品である。

 夫の視点で物語は進むが、タイトルにもある通り、夫は妻や周囲の社会との「距離」を、常に意識している。妻との接し方ひとつとっても、夫はこう言う。

「来年は、一緒にお花見をしよう」  というのは良い科白ではなかった。しかし、これまではずっと、未来を見ることで明るく生きてきたのだから、未来を見ずに明るく生きる方法が、今はわからない。

「春は馬車に乗って」の夫にくらべてかなり繊細に、気を遣った考え方をしている。性格の違いと言ってしまえばそれまでだが、昔よりも夫婦ともに社会とのかかわりを多く持つようになり、死に際しては病院で多くのスタッフの世話になる現代においては、こちらのほうが身近な考え方ではないか。

「未来を見ずに明るく生きる方法がわからない」というのは、死を前にした者の普遍的な苦悩であり、「春は馬車に乗って」の妻は、体が弱ってからは毎日夫に聖書の詩篇を読んでもらうことで、その苦悩をやわらげていた。しかし聖書は大多数の日本人にとって身近ではない。

『美しい距離』の夫婦は、社会との「距離」を考えることで、未来を見ることが出来ない苦悩を忘れようとする。妻はこう言う。

「...『元気がないまま人に会ってもいいんじゃないか』と思うようになったの。(中略)元気のない人は、家や病院に閉じこもることが社会のためになるんだろうか。そんなの変だよ。......元気がなくても社会と関わりたい」
 この作品を最初に読んだとき、医師や介護保険の認定調査員、葬儀会社などの言動に対して、夫が軽い反発を感じるところに、繊細すぎるのでは、という印象をもったが、そういうふうに社会との距離を考えることが、生きるということなのである。長くなるので引用は控えるが、64~65ページの、余命という言葉を否定する夫の考え方は、ぜひ読んでほしい。どこか「春は馬車に乗って」の妻の「黙って看病してほしい」という言葉と通じるものも感じる。

 横光利一の描く夫婦の、死を前にした自由さをひとつの理想とすれば、山崎ナオコーラの描く夫婦は、現実に死に直面したときの心のもちよう、考え方を示してくれる。それは両方を読み比べて、はじめて気づけたことである。

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八重洲ブックセンター八重洲本店 内田俊明
八重洲ブックセンター八重洲本店 内田俊明
JR東京駅、八重洲南口から徒歩3分のお店です。5階で文芸書を担当しています。大学時代がバブル期とぴったり重なりますが、たまーに異様に時給 のいいアルバイトが回ってきた(住宅地図と住民の名前を確認してまわって2000円、出版社に送られた報奨券を切りそろえて1000円、など)以 外は、いい思いをした記憶がありません。1991年から当社に勤めています。文芸好きに愛される売場づくりを模索中です。かつて映画マニアだった ので、20世紀の映画はかなり観ているつもりです。1969年生まれ。島根県奥出雲町出身。