『さびしい王様』北杜夫

●今回の書評担当者●紀伊國屋書店仙台店 山口晋作

12月は書店にとって忙しい月です。そのせいかあまり本を読めず、 当欄に紹介する本がなかなか思い当たりませんでした。仕方なく小さな本棚を左上から見ていって、そうだケストナーの「飛ぶ教室」にしよう、あれを年が明けてからチャッチャと書こうと思っていたら、クリスマスイブの更新で正文館書店の清水和子さんが取り上げてしまっちゃっていたのでした。

「飛ぶ教室」の良さはまさに清水さんの書いている通りで、あのように子供が読んでも大人が読んでも面白く、それぞれに発見があるというのは素晴らしい本だなと思います。ほかにそんなのはないかなと探して見つけたのが、北杜夫の「さびしい王様」でした。私が一度目に出会ったのは小学二年生のときで、父親が図書館で借りてきたのを読みました(寺山輝夫の「ぼくの王さま」と勘違いして借りてきたんじゃないかと思います)。その時期の読書としては大長編だったはずですが、熱中して読んで、面白い本であったが、なんかモヤモヤの残るヘンテコな話だったなと感じたことをよく覚えています。その後、大学生になり北杜夫が好きになり、作品を読み進めていくうち本作と再会し、これはすごいなぁと思ったのでした。

「さびしい王様」は1969年に「おとなとこどものための童話シリーズ」の第一作目として書かれた小説です。奸智に長けた総理大臣に役に立たない帝王学と大サイン学だけを教え込まれた、幼い王様が革命に乗じて冒険にでて成長していくという話ですが、王様をはじめとするキャラクターも、ストーリーも語り口も非常にユーモラスで楽しい作品です。子どもが読んでも十分楽しめると思いますが、ちょっと大人になって気がついたのが、とても賑やかな話なのに、なぜかタイトル通りの「さびしい」を感じてしまうということでした。プリンと醤油を食べていたら、ウニになったかのごとくです。

「さびしさ」というのは不思議な言葉でうまく説明できない。ちょっと女々しい言葉だから、あまり真剣に考えてこなかったからかもしれません。辞書を作っている人も困難を感じているか、うまく誤魔化しているかどちらかではないでしょうか。高校の日本史の授業で、「西周という人が、哲学・理性・抽象などといった訳語を作ったのだ。それらの言葉は元々の日本語には存在しなく、だからこそ我々日本人はこれらの言葉を本質的に理解できない」という乱暴な話をされて、そういや確かに愛ってわかんないよなぁ、とニキビ面をさげて聞いていたものでしたが、それと同じくらい「さびしさ」は踏み込めない言葉でした。しかしこの本を何回か読んでいたら、どうも「さびしさ」の居所というのは、ユーモアや賑やかさの薄板を挟んだ表裏にあるのではないかだろうかという感覚を得ました。そしてその感覚はちょっとした財産だなと思うのでした。

北杜夫さんは今年で83歳だそうです。身体も弱っているそうで、いつかは新刊が読めなくなるときがくるのでしょう。そのときはきっと難しい評論が出るだろうし、本作のような純文学でない作品は無視されるようになってしまうかもしれません。私がこの本を紹介できるのは今しかないような気がしまして紹介しました。

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紀伊國屋書店仙台店 山口晋作
紀伊國屋書店仙台店 山口晋作
1981年長野県諏訪市生まれ。アマノジャクな自分が、なんとかやってこれたのは本のおかげかなと思いこんで、本を売る人になりました。はじめの3年間は新宿で雑誌を売り、次の1年は仙台でビジネス書をやり、今は仕入れを担当しています。この仕事のいいところは、まったく興味のない本を手に取らざるをえないこと、そしてその面白さに気づいてしまうことだと思っています。