『ナニカアル』桐野夏生

●今回の書評担当者●紀伊國屋書店仙台店 山口晋作

私は「サヨナラだけが人生だ」という言葉が大好きです。文字通りの意味に受け取ってもそうだよなぁと思うし、逆に「サヨナラだけが人生ならば また来る春はなんだろう」と唄うカルメン・マキの歌声も心に沁みる。太宰治や寺山修司らが好んで使ったこの言葉は、井伏鱒二が唐詩「勧酒」を大胆に意訳したものですが、実はこれは林芙美子の言葉なのだそうです。昨年のさだまさしのコンサートでさださんがそう言っていったのですが、それで林芙美子という人がますます気になり出し、桐野夏生の新刊「ナニカアル」が林芙美子だよと聞いて読んでみたのでした。帯がなければ表紙からは全然わかりませんよ。

作家の作品には、名作とそうでないものがあります。全てが等しく名作という人は殆どいないはずで、読者としては、そのブレもまた気になるところですが、林芙美子に関していえば恐らく「浮雲」が一番の傑作と評価されているのではないでしょうか。他の作品が駄作というのではありませんが、晩年の作品となった「浮雲」は傑出している。

芙美子は1942年から翌年にかけて報道班員として南方(仏領インドネシア・シンガポール・ジャワ・ボルネオ)を訪れ、その経験を基に書かれた作品が「浮雲」です。終戦前後を舞台に、一人の女性が男性に執着する様を描き、下手をすれば昼ドラのような内容になってしまいそうですが、的確な心情描写と、終戦を前後しての世相と日本人の精神を綿密に表現することで、文学史に残る名作となっています。

ではどうしてこの傑出した作品を書くことができたのだろうか。浮雲から浮雲以前を引いて、林芙美子で割ったら、南方で起こったことが分かる。そう仮定し、その方程式を解いて作品にしたのがこの「ナニカアル」です。桐野夏生は内容にグロいものが多いとよく聞きますが、この作品に関してはその企みそのものがグロい。

芙美子は「放浪記」の出だしで、「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と書いています。その身軽で、モラルや所属から自由な芙美子ならどう振る舞うか。またその身軽さや自由さが制限されたらどうする?作者の筆で炙り出された芙美子は情熱的で、彼女の見ている世界の瑞々しさは、「放浪記」が思い出させます。そして後半に進むにつれ現れる、南方の豊かさと影、あくまで自由であった彼女が反発しながらも、生活や年齢、時代に絡め取られていく姿に、この小説の持つ凄みを感じたのでした。林芙美子の人間的な魅力、桐野夏生の筆力の強さの出会いは一読の価値ありです。

さて今回で私の分は最後になりました。毎回、自分の読書量の少なさ、表現力、語彙のなさを思い知らされるばかりでした。ネットって残るんですよね。恥ずかしいかぎりですが、もし少しでも興味を持っていただいて手にとって下れば光栄です。できればうちの店で。一年間ありがとうございました。

« 前のページ | 次のページ »

紀伊國屋書店仙台店 山口晋作
紀伊國屋書店仙台店 山口晋作
1981年長野県諏訪市生まれ。アマノジャクな自分が、なんとかやってこれたのは本のおかげかなと思いこんで、本を売る人になりました。はじめの3年間は新宿で雑誌を売り、次の1年は仙台でビジネス書をやり、今は仕入れを担当しています。この仕事のいいところは、まったく興味のない本を手に取らざるをえないこと、そしてその面白さに気づいてしまうことだと思っています。