『『文字移植』【『かかとを失くして 三人関係 文字移植』(講談社文芸文庫)所収】』多和田葉子
●今回の書評担当者●蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての、必死で持ち上げる、頭、見せ者にされて、である、攻撃の武器、あるいは、その先端、喉に刺さったまま、あるいは...
少なくとも文章ではない。
単語を逐語訳しただけのことばの連なりは、まるで詩のようだ。
多和田葉子の『文字移植』は、冒頭からこんな書き出しで言語感覚を揺さぶってくる。
主人公の「わたし」は翻訳者だ。
しかしその翻訳ぶりといったら、相当にヘタクソであるらしい。
ことのほか学者ウケは途轍もなく、悪い。
作品が誉められることはあっても、「文章がこれほど翻訳調でさえなければ」とか、「原文の文体を味わわせてくれないのが残念」などと、それはもう散々な言われようだ。
それだけではなく、「わたし」は一冊訳しとおせたことすらなく、いつも途中で代訳を頼んでしまうのだという。
いつもバラバラの単語と単語をひとつの文章へと纏め上げようとしつつ、途中で息が苦しくなってきて果たせない。
それはまるで、途中で肺活量と体力が尽きてゴールへとたどり着けない長距離走者のようだ。
そんな有様でなぜ翻訳者になることができたのか、という当然の疑問はともかくとして、「翻訳」という行為について否応もなく考えざるをえない小説だ。
翻訳の完成というゴールにたどり着いたことのない「わたし」は、それでも「ひとつひとつの単語の馴染みにくい手触りには忠実」であり、「注意深く向こう岸へ投げているような手応えを感じて」はいるのだ。
(蛇足ながら、ドイツ語において「翻訳する」と「向こう岸へ渡す」という言葉は"übersetzen"という同じ言葉で表現される)
翻訳はいうまでもなく言葉を訳しただけでは成しえない。
言葉には背景があり文化があり、一つの文化を異なる文化へと移植するには、そこに解釈が必要となる。
例えばアンデルセン作『即興詩人』が名作とされるのは、森鴎外という大きなファクターが存在するように。
言語と言語の有象無象のあわいから、拾い出し形作り名づける、という行為だ。
作者とは別の意思をもつ人間が介在する限り、翻訳とは誤読の結果である。
そして誤読とは一つの文学の成果だ。
すべての解釈は正しいと同時に、誤っている。
(言うまでもないことだけれども、正しい内容理解の上にしか成立しない)
解釈の自由、そこに文学の成立がある。
翻訳者は言葉の海をかき分けて岸へとたどり着こうとする。
しかしその到達が大いなる誤読の完成だということならば、そこへと辿り着けない「わたし」は2言語間の詩的境界でたちすくむ、番人のようなものかもしれない。
- 『黄金の少年、エメラルドの少女』イーユン・リー (2014年5月15日更新)
- 蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
- 生まれ育ちは山陰。大学進学で九州へ。お酒といえば芋焼酎というくらいにはこの地に馴染んだ頃。基本宵っ張りで丑三つ時に本を読んだり映画を観たり。映画鑑賞は趣味だと言えるけれど読書は趣味だとは言えない。多分業。外文偏愛傾向のある文芸・文学好き。