『歪み真珠』山尾悠子

●今回の書評担当者●蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美

 山尾悠子の小説には、生々しさがない。
 そこには人間的な体温のやりとりもないし、渦巻くような感情の奔流があるわけでもない。
 あるのは鉱物的な無機質さと、そして圧倒的なイメージだ。

 まるで異なる言語空間にぽんっと放り投げられたような心地さえする世界は中毒性が高くて、どことなくフェティッシュな愛情を傾けずにはいられない。コレクションボックスに陳列された鉱物のように、その一つ一つを丹念に眺め、自分のものにしたい、という所有欲がわいてくる。

「ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠」
「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」
「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」

 目次を開いて、こんなタイトルが並んでいるのを見るとああ、やっぱりいいなあとため息をつきながら頁を繰るしかないのだ。

 海や人魚、鏡、そして廃墟。
 無限にも思われるイメージに彩られた世界は、しかしどこまでも静謐だ。
 静謐、と感じるのは読者の鑑賞態度の反映でもあり、つまり共感性が排除されているということでもある。

 それでも読み進めていくのが苦にならないのは、その作品世界があくまでも理性的に構築されているからでもある。現実とは一線引かれた不可思議な話なのに、一本の筋がぴんと張られていて、驚くほど緻密に組み立てられている。

 硬質で、完璧な世界。

 そしてその世界を崩壊させることさえ厭わない。なんともあっけなく。
 それすら、一種の快楽である。

 ミロのヴィーナスの例を持ち出すまでもなく、欠損ゆえの永遠の美しさ、というものがある。この完璧な世界も廃墟となることで永遠性を獲得しているのかもしれない。

 タイトルの『歪み真珠』──つまり真円ではないバロック真珠のことであるが、ごつごつとした歪みをもつバロック真珠のように、山尾悠子の短編集は見るほどに違う光を照り返し、新たな魅力をあらわしてくる。一筋縄ではいかない。そして、一筋縄ではいかないことがこれほどに愉しい本もない。
 
 ちなみに、造本も素晴らしく美しいことを追記しておく。
 群青の箱にに収められた本は薄紙に包まれており、ベージュや白のアラベスクでささやかに飾られた題字は銀色の箔押しでひっそりと輝いている。

 まったく、極上の嗜好品のような一冊なのだ。

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蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
生まれ育ちは山陰。大学進学で九州へ。お酒といえば芋焼酎というくらいにはこの地に馴染んだ頃。基本宵っ張りで丑三つ時に本を読んだり映画を観たり。映画鑑賞は趣味だと言えるけれど読書は趣味だとは言えない。多分業。外文偏愛傾向のある文芸・文学好き。