『黄金時代』ミハル・アイヴァス
●今回の書評担当者●蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
『文芸的な、あまりに文芸的な』の中で芥川龍之介は「話らしい話」のない小説をもっとも純粋な小説とした(往々にして勘違いされることではあるけれど、この文脈における「話」とは必ずしも「物語」の意味をささない)。筋の面白さ、話の奇妙さは評価の埒外であるということを言っていることを鑑みるに、ミハル・アイヴァスは「純粋な小説」の対極にあるとすら言えるのかもしれない。
全然関係のないだろうこの有名な論争を冒頭にもってきたのは、発端としてミハル・アイヴァスを紹介しようとするたびにあらすじをまとめるのに困るからであった。この『黄金時代』は前半と後半で趣の異なる二部構成であり、前半部分の紀行小説っぽい雰囲気と後半部分の脱線しては戻る幾つもの物語など、説明しづらい、というのもある。しかし少しづつ少しづつ読み進めていくことで次に進むことが出来る連鎖的な内容で読まなければわからないというのは、例えば「人間」を描くことに主眼をおいた小説の読み方と同じであり、そもそも本来的に小説とはあらすじの不要なものではないか、という思いが芥川龍之介の冒頭の言を思い起こさせたからだった。
内容紹介ができないわけではない。ざっくり言うと、二部構成になった話は前半が舞台となる「島」およびその島に住む島民の説明であり、後半部分はその島民たちが連綿と受け継ぎ書き続けてきた、無限の「書物」の内容の紹介である。
南にある未知の海に浮かぶその「島」は近代ヨーロッパの植民地支配を受けたけれども、果たしてその慣習は根付くことなく島民のメンタリティに変化を及ぼすことがなかった。主人公はそれを「欧州の敗北」と裁定し、この点において位相的にヨーロッパのアンチテーゼとして提示されている。
その淡々とした紀行文のような雰囲気から一転、後半部分はその島に伝わる本に書かれていた物語の紹介となる。しかもその本は島民が自由に内容を付けたし、書き加えることができるのだ。そんな本のなかの物語はさながらネットにアップロードされた文章だ。1ページに収まる分量の文章であっても、張り巡らされたリンクで文字は増殖し、脱線してはまた戻ってくる。
『千夜一夜物語』の昔からボルヘス、マラルメ、そして現代のネット社会まで、その手法は常に使われ続けていたといってもいいのかもしれない。しかしそこに言葉で織り上げられた世界の無限性を、そして「世界」を言語化し1冊の本の中におさめようという人間の業みたいなものを感じてしまうのだ。言語化する、というのは形のないところから概念を作り出す行為に他ならないのだから。
と、まあ細々と書き連ねてはみたものの、本当はミハル・アイヴァスの前にどんな言葉を尽くしても無駄なような気はしているのだ。ああだこうだと考えることだって、本当はきっと必要ない。読んでみてください。それくらいしか本当は言うことが出来ない。
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- 蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
- 生まれ育ちは山陰。大学進学で九州へ。お酒といえば芋焼酎というくらいにはこの地に馴染んだ頃。基本宵っ張りで丑三つ時に本を読んだり映画を観たり。映画鑑賞は趣味だと言えるけれど読書は趣味だとは言えない。多分業。外文偏愛傾向のある文芸・文学好き。