『氷』アンナ・カヴァン

●今回の書評担当者●蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美

 新刊案内を見ていたところ、アンナ・カヴァンの『氷』が文庫で復刊されることを知った。 『ビブリア古書堂の事件簿』で言及されて以来、ここ2、3年で復刊が続いているアンナ・カヴァンの作品だが、怒涛の復刊ラッシュの前に私がまともに読んだことがあるのは、この『氷』1作のみだった。

 異常な寒波の夜道、ひたすら車を走らせるひとりの男がいる。目的は、ある少女に会うことだ。少女の家までは入り組んだ道をゆき、男は道に迷う。途中で寄ったガソリンスタンドの男は丁寧に道を教えてくれるが、途中で苛々とし始めた男はそれを遮り車を発進させた。その後ろからかけられる「あの氷には気をつけろ」という忠告。冒頭から、一気に不安に陥れる書き出しだ。なぜ世界はこんな異常気象に追われているのか、なぜ過ぎ去る景色は荒廃しているのか、そして「氷」とは何なのか?

 物語は奇妙に進行していく。謎は少しずつ解明していくように見えて後戻りをし、さらに男の幻覚と現実が交錯する。少女の家へと向かう男は途中で少女の幻を見る。アルビノだという少女の血の気が見られない白さの裸体、キラキラと光を反射する白い髪の毛。その少女が足元に忍び寄る氷に閉じ込められようとしている。清浄さとともに妙にエロティックなイメージだが、しかし男の少女に対する視線に性的なものはないように思える。そこにあるのは、醜悪なまでの執着心だ。彼女を救出しようとする男の行動はひとりよがりでいっそ狂気の域に達している。反して少女は男のことを避けるそぶりをみせ、時折嫌悪感をむき出しにする。この男と少女の関係性もよくわからないまま少女は姿を消し、男はその執着心で追いかけてゆく。行き着いた先は某独裁国家。絶対的な力で少女を支配する長官と男は対峙する。

 1人の少女と、彼女に執着する男たち。昼メロかと思うようなドロドロの構図だが、しかしその関係性はどこか寒々しい。そこにあるのは執着や嫉妬であり、そして愛を求めない少女の絶望だからだ。男の執着と少女の絶望が暖かな車の中に収斂するラストシーンは救いにみえて、しかし世界は否応なく死へと向かっている。その世界から逃げ出そうとするかのように車を走らせる男と少女も免れはしないだろう。巨大な氷の塊と輝くプリズムのビジョン。アンナ・カヴァンの描く終末のイメージは、不純なものなどない圧倒的な美しさだ。

 さて実はこの原稿を書いている現在九州地区の書店には新装版の文庫はまだ入荷しておらず(掲載される頃には店頭に並んでいるはずだ)、なおかつ以前私が読んだ単行本も今は既に手元にない。まったく、迂闊なことである。 というわけで、今回の原稿は以前読んだ記憶を頼りに書いたために細部に記憶違いがあるかもしれないがご容赦願いたい。それでもなお語りたいと思うほどの魅力に抗いきれなかったのだ。

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蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
蔦屋書店熊本三年坂 山根芙美
生まれ育ちは山陰。大学進学で九州へ。お酒といえば芋焼酎というくらいにはこの地に馴染んだ頃。基本宵っ張りで丑三つ時に本を読んだり映画を観たり。映画鑑賞は趣味だと言えるけれど読書は趣味だとは言えない。多分業。外文偏愛傾向のある文芸・文学好き。