『怒り』吉田修一

●今回の書評担当者●サクラ書店平塚ラスカ店 柳下博幸

 八王子で起きた殺人事件。
 殺害現場には惨殺された被害者の血文字で「怒」という文字が残されていた。
 逃走を続ける犯人。逃げ続ける犯人「山神一也」はどこにいるのか?

 事件から1年が経った夏、物語は始まる。
 千葉の漁協で働く父娘の前に現れた男。
 都内で一人暮らしを楽しむゲイの前に現れた男。
 流れ流れて沖縄で生きる母娘の前に現れた男。

 だれもがあやしく、だれもがふつうの前歴不詳の男。少しづつ、家族に、町に溶け込んで行く男達。犯人は誰なのか、全員が山神一也なのか、交錯するストーリーに読みながらグイグイ引き込まれていく。犯人を追う刑事にも葛藤がある。老猫を介したもどかしいほど脆いつながり。真実を追いつつも最後に踏み出せない焦りやいらだち。

 警察の必死の捜査にもかかわらず山神一也の幻影は影を踏ませない。
 それでも警察はひとつひとつ地道な捜査で一歩一歩山神を追いつめてゆく。

 前歴不詳の男との生活はそれぞれが自分を無理に納得させ、不安に蓋をして過ごしていた。
しかしTVの報道を見て家族たちは動揺する。

「もしかして?」

 打ち消しても打ち消しても浮かぶ疑念。愛情や信じる事、何度も自問自答するが疑念が疑念を呼びそれぞれが出した結論は......

 人を殺したいほどの怒りはどれだけの熱量なんだろうか。「怒」と書き残すほどの怒り。

 想像ができない。ただそれを想像できないのは爆発するほどの怒りを自分がまだ知らないからだけなのかもしれない。そう、まだ。しかしその爆発する融点は人それぞれなのだからきっかけ次第で誰しもがその境を乗り越え殺人者に代わってしまう。ふつうの人ほど簡単に。そう自分も。逃げ続ける殺人者も日常を過ごしている。そこには友情も愛情も信頼も存在しているかもしれない。不安定ないつ崩れるかもしれない砂上の楼閣と知りながら。

 人を信じるって何だろう。真実を求めると喪われる儚い幸せの事を想う。それでも最後に掴んだ儚い幸せ、希望。自分はその時に信じる事が、信じ続ける事が出来るだろうか。彼等の歯車が何処で狂ったのかをもう一度読み返してみる。

 自分を見失わないように。

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サクラ書店平塚ラスカ店 柳下博幸
サクラ書店平塚ラスカ店 柳下博幸
1967年秋田生まれ。嫁と猫5匹を背負い日々闘い続けるローン・レンジャー。文具から雑貨、CDにレンタルと異業態を歴任し、現在に至る。好きなジャンルは時代物(佐幕派)だが、CD屋時代に学んだ 「売れてるモノはイイもの」の感覚は忘れないようにノンジャンルで読んでいます。コロンビアサッカーとオルタナティブロック愛好家。特技・紐斬り。