『深い疵』ネレ・ノイハウス
●今回の書評担当者●銀座・教文館 吉江美香
ミステリ好きな顧客さんに迷うことなくお薦めしているのが『湿地』と、この『深い疵』。両方とも東京創元社さんかー、やるなぁ。登場人物が膨大で、かつ覚えにくい名前でもメゲナイぞ。『ミレニアム』で鍛えられたもんね、ふふん!
壮大な規模のドミノ倒しをミステリに置き換えて読むがごとく。舞台であるドイツ中西部タウヌス地方は歴史の澱が溜まっている上に人や物の出入りが激しい地域なのだそうだ。その地で次々と起こる殺人事件は捜査を重ねれば重ねるほど謎の枝葉が広がり、解決にはほど遠くなっていく。
ドミノ倒しの本線に乗っかったオリヴァーは(ドイツ人でオリヴァーといえば蹴球猿人オリヴァー・カーンだけど刑事オリヴァーはだいぶ違う! 猿人カーンも好きだがな。)質実剛健で繊細な一面も持つ首席警部。部下の女性刑事ピアと共にドミノ伏線に入り込みトラップにつまづき、行きつ戻りつを繰り返しながらも本線は第二次大戦のホロコースト、ナチス親衛隊という暗く混沌とした場所に辿り着く。
細い葉脈にようやく入り、糸口を見つけたかと思いきや葉脈の先には確たる証拠もなく水分が行きわたっていなかったというような焦燥感がストーリーをさらに勢いづかせる。浮かんでは消え、消えては浮かぶ怪しい人々。最後の最後まで読み手を翻弄し続ける巧妙な仕掛けはあまりに見事でそのたびに裏切られる楽しさに満ちている。
見かけだけの健全な小さな世界が崩壊し制御が利かなくなった姑息な奴らはあらゆる手段で己の保身を試みる。しかし転がり始めた過去の罪はさらに大きくなり闇へと落ちてゆく。戦時下の生死がかかった状況とはいえ人間はこんなにも非情になれるのか。
そして虐待行為を受けながらも耐えに耐えて生き抜いた人々の消えることのない苦しみ。戦争がもたらした深い疵は何十年経とうと癒えることはない。むしろ年月を重ねた分、憎悪は膨れ上がる。時効を廃止しナチの永久追及が続く今この瞬間も世界のどこかで過去を偽り暮らしている戦犯がいるという事実に怒りそして恐怖する。本気の後悔、懺悔、改悛がない限り赦しが存在するはずもない。
ドイツは数十年という時間をかけてナチスの過去に向きあい過ちを謝罪してきた。その真っ当な取り組みはたかだかミステリと言ってしまえばそれだけの世界にも反映されている。周囲を取り巻く人々の思惑や嘘、うずまく陰謀がこれでもかと盛り込まれていて途中だれることもない。目まぐるしく変わるシーン、地道で手間ばかりかかる捜査も骨太な作品の支えだ。
刑事(デカ)部屋の同僚たちもかなりユニークなつわもの揃い。オリヴァーとピアはつかず離れず絶妙なコンビ。時おりのぞかせる素顔も魅力的だ。(結構タイプだぞ、オリヴァー。)同シリーズ『白雪姫には死んでもらう』がすでに待機中だという。ノイハウスは間違いなく<ドイツミステリの女王>だと言い切ってしまおう。
リープヘン! バームクーヘン!(意味不明)
- 『非現実の王国で』ヘンリー・ダーガー (2012年7月12日更新)
- 『女が嘘をつくとき』リュドミラ・ウリツカヤ (2012年6月14日更新)
- 『見習い物語』レオン・ガーフィールド (2012年5月10日更新)
- 銀座・教文館 吉江美香
- 創業127年を迎える小社の歴史のなかでその4分の1余に在職してるなんて恥ずかしくて言えやしないので5歳から働いていることにしてください。好きな人(もの)はカズオ・イシグロ、木内昇、吉田健一、ルーカス・クラナハ、市川左團次、UKロック、クリミナル・マインド、文房具、生け花。でもやっぱり本がいちばん好きかな。