『ピダハン 』ダニエル・L・エヴェレット
●今回の書評担当者●リブロ池袋本店 幸恵子
すでにいくつもの紙誌で紹介され、話題になっている『ピダハン』。「本の雑誌」本誌でも紹介されていた。
本書は、言語学者でありキリスト教の伝道師でもある著者が、聖書の翻訳のためにアマゾンに住む少数民族であるピダハンの言語を研究した記録であり、共に暮らした彼らの文化や思想についての記録である。そのため、西洋人からみると驚きの連続であるピダハンとの生活についての部分と、チョムスキーやピンカーらの言語本能説への批判でもある言語学についての部分、両方が楽しめる一冊となっており、本屋としては言語学と文化人類学、両方の棚にも置きたくなる本である。
さて。
ピダハンの特異な言葉やものの考え方については数多の書評もあることだし、伝道者から無神論者になってしまう著者の顛末についてなども、ここではちょっと端折らせていただくが、この本のおもしろさは、ピダハンという民族について書かれているだけでなく、同時に著者の視点=西洋とキリスト教についても書かれているということにある。著者はピダハンを知るによって、己の価値観や言葉についても思考しているのである。
たとえば、キリスト教について。
ピダハンは、伝道師である著者からキリスト教の話をいろいろ聞かされることになるのだが、ピダハンからしてみると
「イエスってのは、なんでも自分の言ったとおりにしろ、ってあっちこっちいってまわっているヤツのことだろ」
ということになるらしい。(たしかに聖書には、イエスが「行って○○をしなさい」と命令形で言っている箇所が何回も出てきますね)。ほかにも「で、おまえは、いつイエスに会ったんだ?」「会ったこともないやヤツのことをどうして信じるのだ?」などと言われてしまったりもする。著者が真摯であるが故に、ちょっと笑ってしまう話ではあるのだが、同時に「はて、わたし自身はどのような宗教観を持っているのだろうか」と、立ち止まりながら読んだ。また同じように、言語学のパートを読んでも、ピダハン語の特徴や英語との違いだけではなく日本語とはどのような言語なんだろうかと考えたりもした。
むむ。わたしも著者と同様、相手の違いや共通点を知ることにより、自分自身のことについて考えてしまったようだ。大袈裟に言えば、世界の多様性の片鱗が見えてきたということか。
ピダハンも実用的なもの以外の西洋文化を取り込もうとしないし、ブラジルのほかの種族には西洋的価値をあからさまに侮蔑する人々もいる(そのことも本書には書いてある)。が、真の意味で多様性を互いに認め尊重することができれば、自分の都合の紋切り型で見るより、世界はずっと面白いものに見えてくるはずである。
文化は、なにかとなにかを比べて、端的にどちらの一方が優れているなどということはできない。そのようなことに気がつかせてくれることが、本書の「キモ」になっているとわたしは思う。
- 『そこに僕らは居合わせた』グードルン・パウゼヴァング (2012年8月23日更新)
- 『性悪猫』やまだ紫 (2012年7月27日更新)
- 『逃避めし』吉田戦車 (2012年6月28日更新)
- リブロ池袋本店 幸恵子
- 大学を卒業してから、大学の研究補助、雑貨販売、珈琲豆焙煎人、演劇関係の事務局アシスタントなど、脈略なく職を転々としていた私ですが、本屋だけは長く続いています。昨年、12年半勤務していた渋谷を離れ、現在は池袋の大型店の人文書担当。普段はぼーっとしていますが、自由であることの不自由さについて考えたりもしています。人生のモットーはいつでもユーモアを忘れずに。文系のハートをもった理系好きです。