『夕鶴』木下順二
●今回の書評担当者●リブロ池袋本店 幸恵子
誰でも知っている話というものがある。
「桃太郎」や「舌切り雀」「カチカチ山」「ウサギとカメ」「八岐大蛇」など、昔話や民話、神話と呼ばれるものには、詳細はわからなくとも名前は知っているというものが多い。
その最たるものに「鶴の恩返し」がある。鶴を向かい入れるのが老夫婦であったり若者であったりなど、さまざまな伝承の形があるが、そのひとつの形である「鶴女房」をもとにした木下順二の戯曲が『夕鶴』である。
わたしは、かの伝説の山本安英演じる舞台は観たことがないのであるが、玉三郎演じる鶴の化身つうと、渡辺徹の与ひょうによる舞台ならば観たことがある。が、戯曲は読んだことがなかった。
さて、先日『夕鶴』を読んだことのある者から、思いもしなかった一言を耳にした。曰く、「『夕鶴』って、資本主義批判を意識して書かれたものらしいよ」
え!!
『夕鶴』を単なる民話劇のひとつだと思い込んでいた私に衝撃が走った。しかし、築地小劇場の成り立ち、国家からの表彰を辞退し続けた木下の生きざまを見ればさもありなんか。そうか、そうかもしれない。舞台を観た時、なぜ気が付かなかったのか。
という訳で、『夕鶴』を早速読んでみた。
果たして、マルクスの『資本論』において交換価値の例として上がっているのは、「20エレのリンネル」である。そしてそれは「一着の上着と等価である」となっている。『夕鶴』においてのそれは、つうの織る「布」である。おお。麻の布と、つうの千羽織。奇遇なことにどちらも布ではないか。しかも「夕鶴」においてその布は「町では十両で売れる」が「都に持って行けば千両になる」。そして、与ひょうをそそのかし、つうに布に織らせようとする惣どと運ずは、都に持って行けば千両となるのに、与ひょうに何百両と嘘をついて中間マージンを取ろうとする。そしてつうの労働は搾取される。なんとわかりやすい資本と労働者の構造!『夕鶴』とは人文書なのか。
そして、貨幣の価値がわからないつうは、おかねの話をするようになった与ひょうの話が理解できなくなる。いや、つうのセリフによれば、口が動くのは見えるし音もきこえるのに、言葉そのものがわからなくなってしまうのだ。そしてつうは悲しみに暮れる。おかねによる与ひょうの変化を、つうの痛みを通して観客は見る。資本主義云々を超え、抜群の劇の効果により人間の性(さが)がじわりじわりと迫ってくる。
いやはや、この短い戯曲に詰められたものは驚くほど多い。
戯曲を読んだ後、いくつかの夕鶴についての文章を読んだ。中には、わたしの稚拙な理解を遙かに超えた立派な資本主義論もあった。
その数多ある文章の中で、いくつかの木下の言葉がわたしを捕らえた。
木下は「『夕鶴』は民話劇ではなく、現代劇である」と記している。戯曲を読めば読むほど、その言葉の意味が身に染みる。『夕鶴』は昔話でも、道徳めいた訓話でもなく、現代のわたしたちのための作品であり、今も生きている作品なのだ。また、「国家から押しつけられる日本ではない日本を書きたい」という言葉もあった。その言葉の指すところは、あまりにも大きい。
下敷きとなった民話はある。
が、『夕鶴』は、まぎれもなく「木下順二の作品」なのである。
- 『ことり』小川洋子 (2013年1月24日更新)
- 『BRUTUS 2012年12/15号』 (2012年12月28日更新)
- 『スピンク合財帖』町田康 (2012年11月22日更新)
- リブロ池袋本店 幸恵子
- 大学を卒業してから、大学の研究補助、雑貨販売、珈琲豆焙煎人、演劇関係の事務局アシスタントなど、脈略なく職を転々としていた私ですが、本屋だけは長く続いています。昨年、12年半勤務していた渋谷を離れ、現在は池袋の大型店の人文書担当。普段はぼーっとしていますが、自由であることの不自由さについて考えたりもしています。人生のモットーはいつでもユーモアを忘れずに。文系のハートをもった理系好きです。