第四回 愛知川-五箇荘-草津-三条大橋-大津-大垣-桑名
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- 『日本街道100選 (1971年)』
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青空文庫に入っている劇作家の三好十郎の「歩くこと」というエッセイをよく読み返す。一九五二年に書かれた文章だ。頭が混乱したり、心が疲れたりしているときに三好十郎は外に出て、二、三時間歩く。途中、乗りものに乗ることも多い。
《歩くよりも乗りものに乗っている時間の方が多いかもしれません。それでよいのです》
そして歩くことによって「何かが整理され、何かが立ちなおっている」と綴っている。
わたしの街道歩きも「完歩」を目指しているわけでもない。日々のくりかえしの生活から抜け出し、「移動」の中で思索にふけったり、ぼんやりしたりすることが主な目的だ。でもそれだけではない。
《歩く人は歩く人自身、歩くことによって貴重なものをうるのと同時に、歩いていく土地々々の人びとを、横につなげていくことになるのです》
たとえひまつぶしの散歩であっても人の行き来が増えれば、町は活気づく(はずだ)。
十一月十七日。東京駅から午前七時三十三分の新幹線に乗って米原駅へ。ひさしぶりに「のぞみ」ではなく「ひかり」に乗った。
午前九時四十四分、米原駅に到着する。新幹線は早いが、おもしろくない。
駅を出ると小雨が降っている。傘はない。
米原駅は構内にロードバイクなどを貸し出しているレンタサイクルがある。駅で「マイクリング ガイドブック」という冊子をもらう。マイクリングとは「米原+サイクリング」の造語である。
米原市は中山道、北国街道、北国脇往還が通る「街道」の町だ。中山道だと柏原宿、醒井宿、番場宿がある。
米原駅から番場宿までは二キロくらい。長谷川伸の『瞼の母』の主人公・番場の忠太郎が番場宿の生まれである。わたしは小林まことの『劇画・長谷川伸シリーズ 瞼の母』(イブニング・コミックス)しか読んでいない。この作品では「江州は坂田の郡 番場の宿から醒が井まで約一里」という中山道のシーンからはじまる。忠太郎の家は六代続いた番場宿の旅籠だが、没落し......。
忠太郎は架空のキャラクターだが、作中には上州の国定忠治や森の石松も登場する。『瞼の母』は幕末の安政の大地震も描かれている。
しかしこの日、米原駅で降りたのは番場の宿に行くためではない。米原は日を改めてゆっくり歩きたい。
JR米原駅から近江鉄道に乗り換える。
目指すは愛知川(えちがわ)駅。近江鉄道はめちゃくちゃ揺れる。その後、近江鉄道は地元の学生たちのあいだで「ガチャコン(電車)」と呼ばれていると教えてもらった。
近江鉄道は西武系の鉄道会社である。滋賀県内は西武系のバスも走っている。西武グループの創業者の堤康次郎の出身地が現在の滋賀県愛荘町――中山道の愛知川宿だったからだろう。
電車に乗っているうちに小雨はやんだ。
滋賀県といえば、近江商人が有名だが、愛知川商人と呼ばれる商人もいた。
地図を見ながら歩いているとおじいさんに「どっから来たん」と話しかけられる。三重弁(四日市、鈴鹿あたり)のイントネーションと似ている。「東京からです」「歩いてか」「いえ、米原から(乗り換えて)」といいかけると「米原から歩いてきたんか、元気やなあ」といわれる。誤解させてしまったようだが、訂正しなかった。
中山道愛知川宿街道交流館(愛知川ふれあい本陣)で街道マップを入手する。旧中山道を歩いていくと愛知川一里塚跡碑があり、その先に愛知川がある。御幸橋という名前の橋がかかっている。橋を渡るたびにワクワクする。
あっという間に五個荘(五箇荘)へ。五個荘は「ごかしょう」と読む。もより駅は近江鉄道は五箇荘駅だが、愛知川駅から歩いても四、五十分くらいで着く。
五個荘は近江商人を生み出した土地で「てんびんの里」と呼ばれ、古い建物がたくさん残っている。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」という理念も五個荘の商人の家訓からきている。
愛知川宿でもらった「ぶらり愛荘町みちしるべ」には五個荘の手前までしか載っていない。逆に「近江商人のふる里 五個荘散歩」のマップは愛知川宿が載っていない。
余裕で歩いて行ける距離なのだが、あまり行き来がないのだろうか。
五個荘は、私小説作家で阿佐ヶ谷文士の外村繁の出身地である。
代表作の『澪標』は「私が生まれたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分かれていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となっている」という文章ではじまる。
わたしが五個荘に寄ったのも外村繁文学館に行きたかったからだ。すぐ近くには外村宇兵衛邸、五個荘近江商人屋敷中江準五郎邸もある(外村繁邸と合わせて入館料は三館共通で六百円)。
外村繁は一九〇二年十二月二十三日生まれ。家は東京の日本橋と高田馬場で木綿呉服問屋を営んでいた外村商店である。本人は文学を学びたかったのだが、親の意向で東京帝国大学の経済学部に入る。一九二八年に外村繁は一時家業を継ぐも業績が上がらず、自分は商売に向いていないと痛感し、弟に仕事を譲る。一九三三年、東京・中央線沿線の阿佐ヶ谷界隈に居を移し、再び作家を目指す。
しかしよく考えてみると、外村繁が家業を継いだのが一九二八年――世界恐慌(昭和恐慌)の前年である。時期が悪すぎた。ほんとうに経営者に向いてなかったのかどうかはわからない。
司馬遼太郎著『歴史を紀行する』(文春文庫)の「近江商人を創った血の秘密〔滋賀〕」に五個荘の話が出てくる。
五個荘は「江戸時代以来、成功した近江商人のもっとも多く出た村である」という。しかも同じ村の中にも「金持村」と呼ばれているところがある。そこが金堂だ。
司馬遼太郎は金堂を訪れ、豪壮な構えの家が集まる一角に辿り着く。すると、通りがかりのおばあさんに「シゲルさんのお家ですよ」と教えられる。
《先年、亡くなられた作家の外村繁氏の生家であることがわかった。外村家というのは五個荘でも代表的な名家であるということを、うかつにもその家の前にくるまで思いだせなかった。私は、外村繁はその作品を通じてしか知らない。戦前、日本浪漫派に属し、地味な私小説を書き、熱心な親鸞の教徒であり、貨財にはいたって淡泊なあのひとが、私の仄聞するところでは、帳簿をぱらぱらとめくっただけでその誤りが指摘できたというほどの眼力があったという》
文学館の展示には『筏』三部作(「筏」「花筏」「草筏」)が、島崎藤村の『夜明け前』に倣って書き上げたものだと記されてる。
島崎藤村は中山道の馬籠宿(岐阜県中津川市)の本陣、庄屋、問屋をかねた旧家の生まれだ。生家は藤村記念館という文学館になっていて、馬籠宿の観光名所になっている。
島崎藤村と外村繁にこんな共通点があったとは。これも街道を通して見えてきた「文学の道」だ。
午後一時すぎ、外村繁の文学館を堪能し、ふらふら歩いていたら、金堂竜田口という近江鉄道バス停があった。時刻表を見ると、一分後にJR東海道本線の能登川駅行きのバスがある。乗るしかない。乗車時間は約八分。運賃は二百九十円。近江鉄道は電車もバスも運賃が高い。
JR能登川駅から草津駅へ。
草津宿は東海道と中山道という二大街道の合流地点――「街道病」にかかって以来、ずっと行きたかった宿場町だ。これまでも郷里の鈴鹿からJR関西本線で京都に行くときは草津駅で乗り換えていた。加佐登駅から草津駅までは電車で千百四十円。二千円ちょっとで往復できる。でも草津駅で降りたことはなかった。早く草津の追分道標が見たい。
草津駅から中山道を通り、草津川跡地公園(de愛ひろば)に向う。日本橋で分岐した東海道と中山道が再び「出会う」から「de愛ひろば」か。なるほど。でも却下だ。
草津川跡地は川床が周囲よりも高いところを流れる天井川だった。そのため川が氾濫するたびに大きな被害が生じたという。二〇〇二年、草津川は廃川になった。
草津川跡地公園には「de愛ひろば」のほかにメロン街道と浜街道のあいだの区間に「ai彩ひろば」という「農と人の共生」をテーマにした交流空間もある。
メロン街道は草津市北山田から守山市に続く農免道路らしい。このあたりは草津メロンや守山メロンが名産である。全国各地にメロン街道やスイカ街道と呼ばれる街道があるようだ。
追分道標、草津宿本陣、くさつ夢本陣(無料休憩所)を経て、草津市立草津宿街道交流館へ。
さすが草津だ。この街道交流館は見事としかいいようがない。ちょうど「草津宿珍客往来」という秋季テーマ展も開催中だった(二〇一八年十一月二十五日まで)。
象や駱駝など草津宿を通行した動物のことや御茶壺道中の記録が展示されていた。
すこし前に近所の青梅街道を歩いていると、東京・中野坂上のあたりに象小屋(象厩)の跡地があった。
江戸時代に長崎から江戸まで象が街道を通って「象フィーバー」が起こり、流れ流れて中野で見世物になった。
そのあたりの事情は、和田実著『享保十四年、象、江戸へゆく』(岩田書院)で知った。和田さんは豊橋市二川宿本陣資料館の主任学芸員である。東海道の二川宿も行ってみたい宿場町のひとつである。
お茶壺道中は宇治のお茶を江戸まで送る習わし。童謡の「ずいずいずっころばし」の「茶壺に追われてトッピンシャン」は昔からわけのわからない歌だとおもっていたが、お茶壺道中の行列に追われてという意味である。
杜山悠著『日本街道一〇〇選』(秋田書店)によると、「何しろ茶壺警固の奉行同心らが約百人、一般警固役が百数十人、茶坊主ども数十人、人足三百五十人......(元禄期)という途方もない行列で、道中資格は摂家宮門跡と対等で、大名といえども道をゆずらなければならなかった」そうだ。
お茶壺道中は中山道~甲州街道を通った。東海道を通ると川をいくつも越えなくてはならず、茶が湿気る。だから遠回りになるが、中山道を通った。
近江商人も大切な商品を運ぶときは東海道の大井川、安倍川(このふたつの川は橋がなかった)の通行を避け、中山道を通ることがあった。
草津の街道交流館は一階の資料室も充実していて、博物館や史料館の街道関係の図録をたくさん見ることができた。
帰りに「弥次喜多道中さらに西へ~続『膝栗毛』の旅~」というパンフレットと「五街道とその宿場」というマップなどを買う。
来た道を折り返し、いずみやという食堂で鍋焼きうどんを食う。店内にはサッカー日本代表の乾貴士選手の新聞記事がいくつも飾ってあった。乾選手は"セクシーフットボール"の野洲高校出身だ。野洲高校は中山道の武佐宿と守山宿のあいだにある。
守山宿にある中山道街道文化交流館も行ってみたい場所のひとつだ。
午後四時前。草津駅から電車で京都に行く。この日、古書善行堂の山本善行さんの誘いで善行堂の隣のゴーリーという店の一箱古本市(毎週第三土曜日開催)に出品していた。
草津駅から山科駅まで行き、地下鉄東西線に乗り換え、蹴上駅へ。会場の店は白川通りと今出川通りの交差点の近く。蹴上駅から白川通りをまっすぐ歩けば着くはずだ。たぶん二キロちょっと。街道歩きをはじめてから三キロ以内なら「近いなあ」とおもえるようになった。いい傾向かもしれない。
一箱古本市の会場に顔を出し、高松から遊びに来た『些末事研究』というミニコミの福田賢治さんと合流し、夜は今出川のアフリカ音楽の店で元編集者で三十七歳のときに「隠居」し、現在はミュージシャン兼作家(『レフトオーバー・スクラップ』冬花社、『亀と蛇と虹の寓話』柏艪舎)の東賢次郎さんのDJを見に行く。
謎の音楽を聴いているうちに、けっこう酔っぱらう。そのまま東さん宅に宿泊――。
翌日、東さんに車で京阪三条駅まで送ってもらう。三条大橋から東山駅までウォーミングアップをかねて歩く。東山駅から京阪京津線直通の地下鉄に乗り、びわ湖浜大津駅を目指す。途中から路面電車になる。何も知らずに乗ったので得した気分だ。
駅を降りて大津港に行く。駅からの景色が素晴らしい。琵琶湖、海にしか見えない。
琵琶湖の名称の由来は湖の形が琵琶に似ているからだが、もともとは「近淡海(ちかつおうみ)」「鳰(にお)の海」などと呼ばれていた。
現代教育調査班編『教科書には載っていない日本地理の新発見』(青春新書)によると、琵琶湖が琵琶湖と呼ばれるのようになったのは鎌倉時代末でその名称が普及したのは江戸時代になってからだという。
古本屋で買った『開館1周年記念特別展 街道・宿場・旅 旅人からのメッセージ』(大津市歴史博物館、一九九一年)の児玉幸多「近代大津の交通事情」によると、大津は近世における「有数の経済都市」であり、東海道の宿場町としては「京都の出入口」「大坂への分岐点」であり、「北国海道(西近江路)の出発地」「湖上の水運の中心地」でもあったそうだ。
大津は琵琶湖をはさんで日本海にも太平洋にも行ける。この地が交通の要所だったことは地図を見れば一目瞭然である。
天気もよく、大津港の展望台から琵琶湖を眺める。琵琶湖クルーズが気になったが、今回は乗らなかった。
大津からは京阪石山坂本線で唐橋前駅に行く。東海道の名所・瀬田の唐橋を渡りたい。瀬田川は淀川の滋賀県内の名称であり、琵琶湖の百二十の河川のうち唯一の出口になっている川だ(疎水はのぞく)。
瀬田の唐橋は日本三古橋(京都の宇治橋、山崎橋)で近江八景のひとつ。古来、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建部の役などの主戦場でもあった......ということは前述の杜山悠著『日本街道一〇〇選』(秋田書店)で知った。「唐橋を制す者は天下を制す」という言葉もあるらしい。
唐橋を渡り、天下を制したので、ついでにJR東海道本線の瀬田駅まで歩くことにした。
町中に旧東海道の標識と地図があって助かる。住宅街を歩いていると「この道でいいのだろうか」と街道ビギナーのわたしはしょっちゅう不安になるのだ。無事、午後一時前に瀬田駅に到着。とりあえず、電車で米原駅まで行くことにする。電車に乗っているあいだ、米原のひとつ先の醒ヶ井駅に行くかどうか迷う。
思案の末、米原からの電車に乗って、座れたら大垣駅まで行き、座れなかったら醒ヶ井駅で途中下車しようと決める。
余裕で座れた。
大垣は水郷の城下町。水門川に沿って遊歩道(四季の路)が整備されている。
遊歩道の終点付近に大垣市奥の細道むすびの地記念館がある。今回は先を急いでいたので行かなかった。一日でまわれる場所には限度がある。岐阜県は歴史街道だらけで行きたい町がたくさんある。ただし、何かのついでにちょっと寄るにはむずかしい場所が多い。
旅行中のメモを見たら「新幹線の駅は大垣に作るべきだった」と書いてある。
今回の旅では養老鉄道で大垣から桑名まで行き、そこから鈴鹿に帰ると決めていた。
養老鉄道は東海道と中山道を乗り換えなしに行き来できる。片道七十分。日が暮れてしまっては車窓を楽しめない。
養老鉄道は「美濃街道」とほぼ並行に走っている。「美濃街道」は岐阜側では「伊勢街道」と呼ばれているらしい。東海道の宮宿と中山道の垂井宿をつなぐ脇街道の名前も「美濃街道」だ。岐阜県の関ヶ原町の不破関から亀山宿に続く「巡見街道(じゅんけんかいどう)」という街道もある。こちらも東海道と中山道をつなぐ街道である。
養老鉄道のパンフレットを見ていたら沿線付近に「薩摩カイコウズ街道」という道が載っていた。
カイコウズは鹿児島県の木(学名:アメリカデイゴ)。岐阜と鹿児島は姉妹県らしい。
岐阜と鹿児島の関係は「宝暦治水」(一七五三年~)と呼ばれる治水工事で薩摩藩士が岐阜の長良川・木曽川・揖斐川の「木曽三川」の整備に尽力したという歴史がある。「宝暦治水」は幕府が薩摩藩の財力を削ぐことが目的だったといわれる事業だが、工事のさい、薩摩藩側は多大な犠牲者を出した。
責任者の家老・平田靱負(ゆきえ)も工事終了後に自刃した(宝暦治水事件)。
薩摩カイコウズ街道は「養老焼肉街道」という別名もある。
そんな歴史を学んでいるうちに桑名駅に到着した。
空腹でへろへろだ。駅前の歌行燈に行く。郷里の鈴鹿の家の近くにも同店はある(今、調べたら都内にも店舗があった)。
泉鏡花が一九一〇年に発表した同名の小説の舞台が桑名だったことから、その名がついた(明治十年創業で「志滿や」という店名だった)。穴子の天丼御膳を食べる。三重のうどん屋の天ぷらはおいしい。
桑名といえば、長谷川町子の『新やじきた道中記』(朝日新聞社)は東海道を旅しているのだが、宮から船で桑名に渡り、そのあと「歯いしゃの巻」という虫歯治療のエピソードの回で唐突に終わる。え? お伊勢さんは? まさか打ち切り?
検索すれば詳しい事情が出てくるのかもしれないが、勝手に推理すると長谷川町子は敬虔なクリスチャンだったから弥次さんと喜多さんが伊勢神宮を参拝するシーンを描きたくなかったのではないか。
子どものころに読んでモヤモヤした記憶があるのだが、大人になってから読み返しても釈然としない。