第七回 王子-田端-谷在家-草加-春日部

  • 知的生活のための散歩学―快適に歩きつづけるコツからライフワーク的楽しみ方まで
  • 『知的生活のための散歩学―快適に歩きつづけるコツからライフワーク的楽しみ方まで』
    毛利 好彰
    実務教育出版
    1,258円(税込)
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  • のらくろ ひとりぼっち―夫・田河水泡と共に歩んで (光人社NF文庫)
  • 『のらくろ ひとりぼっち―夫・田河水泡と共に歩んで (光人社NF文庫)』
    高見沢 潤子
    光人社
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  • たそがれたかこ(1) (KCデラックス)
  • 『たそがれたかこ(1) (KCデラックス)』
    入江 喜和
    講談社
    1,850円(税込)
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 JR中央線沿線の高円寺に住むようになって、かれこれ三十年になる。長く暮らしているが、いまだに知らないことがいろいろある。
 そのひとつがバス事情だ。駅前のバス停には練馬駅、赤羽駅、阿佐谷営業所、野方駅、五日市街道、永福町行などの関東バスがあるが、ほとんど乗ったことがない。

 昨年、部屋の掃除中、毛利好彰著『知的生活のための散歩学』(実務教育出版、一九九一年)という本が出てきた。目次をパラパラ見ると「私の高円寺寺町散歩」という頁がある。
 本書の「散歩空間をさらに広げる」というエッセイを読んでいたら、次のような文章があった。

《私はまず、高円寺の自宅から歩いて一五分以内に走っている路線を、ひととおり終点まで乗ってみた。散歩の偵察である。環状七号線沿いには、赤羽、王子、練馬、野方、新宿西口、南にまわれば野沢銀座や渋谷行きのバスが走っている。そのほか、中野、吉祥寺、五日市街道車庫、阿佐ヶ谷、阿佐ヶ谷車庫、丸山車庫行きなど、かなりの路線がある》

 高円寺から王子行きのバスが出ているのか。調べてみると、たしかに環七沿いの「高円寺駅入口」というバス停から王子駅行きの都営バスがあった。
 バス一本で王子駅に行ける。王子に知り合いもいないし、用事もないのだが、王子行きのバスに乗りたくなった。
 久しぶりに堀江敏幸著『いつか王子駅で』(新潮文庫)を再読しながら、王子駅周辺の地図を見る。ちなみに、堀江さんは岐阜県の多治見市出身。多治見は下(した)街道の池田宿がある。下街道は中山道の大井宿から名古屋へ至る脇街道だ。東海道と中山道をつなぐ街道に稲置街道や木曾街道などがあり、下街道もそのひとつである。

 二月二日、朝八時に家を出て、高円寺駅入口のバス停に向かう。駅入口といっても、高円寺駅北口から中野方面に向かい、環七をすこし北に行ったところにある。
 バス停の表示には高円寺駅入口の下に「高円寺中学校」と記されている。
 王子駅行きのバスは三分くらい遅れて到着した。
 途中、西武新宿線の野方駅、西武有楽町線の新桜台駅(羽沢)、東武東上線の中板橋駅、都営三田線の板橋本町駅、JR東北本線の東十条駅あたりも通る。関東バスの赤羽駅行きもだいたい似たルートである。
 街道歩きをはじめてから、バスのルートに関してもすこしずつ詳しくなっている。
 電車のもより駅のない道を歩いているとき、足が痛くなったり、体調を崩したりしたとしても、バスに乗って町中に戻ることができるとおもうと、安心する。
 午前九時すぎ、王子駅に到着。駅前の音無親水公園、それから紙の博物館や渋沢史料館などがある飛鳥山公園を歩いた。
 飛鳥山公園を抜けて、ようやく本郷通りへ。西ヶ原一里塚などを通り、田端駅方面に進む。この付近には東京ゲーテ記念館があるのだが、午前十時開館のため、今回は立ち寄らなかった。
 王子駅前を通る本郷通りは日光御成道(街道)でもある。日光御成道は徳川将軍家が日光東照宮に行くさい、使用した街道なのだが、日光に向かう街道も日光道中以外にもいろいろあって、ややこしい。
 通り沿いの石柱に田端文士芸術村の地図があり、作家や画家の顔のイラスト付のマップがあった。
 午前十時ピッタリに田端文士村記念館に到着。ちょうど開館二十五周年記念展が開催中だった。
 田端文士村といえば、一九一四(大正三)年に田端に移住した芥川龍之介が有名だが、他にも直木三十五、室生犀星、萩原朔太郎、土屋文明、小林秀雄、中野重治、佐多稲子といった詩人、作家もいた。
 一九二三(大正十二)年に菊池寛も田端に移り住み、文藝春秋を創刊する。
 田端文士村は小杉末醒(放庵)が一九〇一(明治三十四)年に田端に住み、明治から大正にかけて、いろいろな画家が集まってきた。
 福田蘭童の父の洋画家・青木繁も一九〇三年(明治三十六)年に田端に移り住んでいる。福田蘭童は音楽家で随筆家、そして釣りの名手としても知られるが、関東大震災後、十九歳のときに、虚無僧をしながら東海道を行脚している。東海道に関する著作もあった。
 この日は『のらくろ』の田河水泡関連の企画展も開催していた。田河水泡の妻・高見沢潤子は小林秀雄の妹である。
 高見澤潤子著『のらくろひとりぼっち 夫・田河水泡と共に歩んで』(光人社)という本もある。田河水泡は、JR中央線の荻窪に住んでいたという印象が強い。田端時代のことは知らなかった。
 昭和四年の春、田河水泡と潤子、母と兄(小林秀雄)は田端の滝野川田端(北区田端町)に引っ越した。隣の家は小杉未醒(放庵)だった。

《兄は関西で、書きつづけていた「様々なる意匠」を、田端の家で書き上げ、「改造」の懸賞評論に応募した》

 田端文士村記念館を出て西日暮里に向かう途中「りゅうのすけくん通り商店街(田端駅前通り商店街)」を歩く。
 午前十一時、西日暮里駅に到着――。
 東京都交通局の日暮里・舎人ライナーに乗る。当初の予定では、日暮里まで歩いて京成本線で千住大橋駅に行き、そこから北千住に向かって日光街道(日光道中)を歩くつもりだった。
 前の日に地図を見ていていたら、日暮里・舎人ライナーに乗りたくなった。
 日暮里・舎人ライナーは日暮里から北に向かって見沼代親水公園駅まで、自動運転で高架の上を走る路線である。
 この日は晴天で空気が澄んでいて、車窓から富士山がかなり大きく見えた。
 わたしは西新井大師西駅で下車した。この駅と谷在家駅のあいだには谷在家公園(足立区)がある。
 入江喜和の『たそがれたかこ』(講談社BE・LOVEコミックス、全十巻)の舞台としても登場する公園である。四十五歳バツイチ(子どもは元夫といっしょに暮らしている)のたかこが、深夜、ラジオでたどたどしく喋っていた若いバンドマンのファンになり、すこしずつ人生が変わっていく。
 この作品では日暮里・舎人ライナーも描かれていて、一度乗ってみたいとおもっていたのだ。
 街道歩きをはじめる前は、そんなふうにおもっても行動に移すことはほとんどなかった。今は気がつくとすこし前まで何も知らなかった町を歩いている。用がなくても歩くこと自体が楽しくなっている。
 谷在家公園の手前にあるデイリーヤマザキでばくだんおむすびの明太子を買い、公園で昼食――。
 谷在家公園からずっと鉄塔が連なる緑道が続いていて皿沼公園を経て江北北部緑道をすこし歩くと舎人公園に辿り着く。
 舎人公園、広い。意味もなく、広い。いや、意味はわたしが見出せなかっただけかもしれない。舎人公園は太平洋戦争のころの防空緑地だったらしい。
 公園内を東に向かってひたすら歩く。公園の中に池がある。公園を歩いているあいだ、子どもと犬をいっぱい見かけた。
 ふだん、わたしは朝寝昼起で日中は家で仕事、夜十一時くらいから外に飲みに行く。そういう生活をしていると、家族連れや犬の散歩をしている人をほとんど見かけない。
 舎人公園を抜け、目指すは東武スカイツリーラインの竹ノ塚駅......のはずだったのだが、道に迷ってしまう。「伊興(いこう)」という町をぐるぐる回る。東に行けばいいとおもって歩いていたら「伊興七曲り」といわれるところに出てしまう。その表示を見たときに「曲がりたい」という誘惑に抗することができなかった。
 街道に関する本を読んでいると、東海道の掛川宿の「七曲り」や岡崎宿の「二十七曲り」など、「曲り」という言葉をよく見る。「曲り」には何かある。街道歩きで鍛えられた方向感覚がどこまで通用するのか試してみたくなった。が、わが方向感覚はまったく通用せず、東に向かって歩いていたつもりが、いつの間にか南の方角に歩いていて、竹ノ塚駅から遠ざかっていた。慌てて引き返したが、もうどこに向かっているのかわからない。
 時間にすれば、おそらく三十分くらいなのだが、もっと長い時間、伊興で迷っていた気がした。
 家に帰ってから調べたら、竹ノ塚駅周辺は赤山街道という街道が通っていることを知った。たまたまなのだが、何も知らずに赤山街道の一部区間を歩いていた。後からふりかえると、道に迷うのもおもしろい。
 しかし「伊興の三十分」はこの先の旅の運命を大きく変えた。
 何とか竹ノ塚駅に到着し、電車に乗って草加駅に行く。日光街道の草加宿を歩く。
 ずいぶん前に東武電車が発行している「ぶらりと~ぶの旅 東武沿線ガイド(1)東武日光線」というパンフレットを高円寺の西部古書会館で見つけた。日光街道について詳しい解説が載っていて今回の旅でも重宝した。刊行時期は不明。東武動物公園(一九八一年開業)の頁があり、一九八六年開業した南栗橋駅や杉戸高野台駅が載っていないので、「ぶらりと~ぶの旅」の刊行時期は一九八〇年代前半の可能性が高い。「ぶらりと~ぶの旅」の日光特集号もあるようなので、いつか手に入れたい。
 草加駅すぐの草加市物産・観光情報センターで「草加まち歩きマップ」を入手。駅を出てまっすぐ行ったところにある八幡神社に寄る。街道歩きで寺や神社に寄っていると、なかなか先に進めない。
 旧日光街道に戻り、日光街道(葛西道)の道標を見る。葛西道は、草加宿と東京の葛西を結んでいた道らしい。
「草加まち歩きマップ」の「今様・草加宿エリア」の地図を見ながら綾瀬川を目指す。
 草加松原遊歩道を歩く。この道は「おくのほそ道の風景地」でもあり、芭蕉の文学碑や記念碑や松尾芭蕉翁像、河合曽良像、正岡子規、高浜虚子の句碑など、あちこち文学碑がある。
 行く先々、どこに行っても芭蕉がいる。
 草加宿はちょこっとだけ寄る(次の独協大学前駅あたりまで)予定だったのだが、綾瀬川沿いの遊歩道を歩きはじめたら止まらなくなる。あちこち寄り道しながら二時間くらい歩いたとおもう。
 わたしはどうやら川沿いの道を歩くのが好きなようだ。新田駅も通りすぎ、十五時前に蒲生駅へ。
 あとすこしで越谷宿なのだが、電車に乗って春日部駅に行く。
 街道歩きは日没前に切り上げるのが自分のルールだ。暗くなったら景色が見えないし、車が怖い。
 春日部は日光街道の粕壁宿。クレヨンしんちゃんの舞台としても有名な町だが、そんなに期待していなかった。
 駅の東口を出てすこし歩く「春日部情報発信館ぷらっとかすかべ」という施設がある。「日光道中 粕壁宿まっぷ」など、いろいろマップをもらう。春日部市の郷土資料館に寄り、その後、日光街道を歩く。
 春日部郷土資料館で粕壁宿のジオラマを見る。もともと江戸初期は日光街道(日光海道)だったが、一七一六年に日光道中と改められたそうだ。
「街道/道中」の表記は専門家でもバラバラのことが多い。街道と同じ意味で「往還」という言葉をつかっていることもある。
 粕壁宿は、通り沿いの至るところに案内板や標柱がある。大落古利根川沿いの道が素晴らしい。古利根川と古隅田川の分岐している手前の新町橋を渡り、川を越える。
 橋の上でしばらく川を見ていた。いいところだなあ、春日部。
 わたしは「街道病」を発症する前、四十代前後に「川を見たい病」を患った。そのきっかけは、安岡章太郎のエッセイで、昔、利根川は東京湾に流れてこんでいたことを知り、感銘を受けた。江戸時代、すごいと......。
 家にこもって仕事をしていると、むしょうに川が見たくなる。水が流れているところが見たい。それから川に関する本も集めるようになった。
 もともと四十歳くらいまでわたしは橋が苦手だった。歩道橋も。ビルとか塔とかの仕切りのある高いところは平気なのだが、橋を歩くのが怖い。とくに欄干の低い、隙間の多い橋だと、血の気がひいてまっすぐ歩けなくなる。
 ところが、中年になり、体重がすこしずつ増えていくにつれ、橋を歩けるようになった。少々横から風が吹いてもよろけない自信がついたおかげかもしれない。ある日、気がついたら、橋を渡るのが好きになった。

 新町橋を渡ったあたりから、足が疲れてきた。小渕の一里塚跡、小渕追分(関宿往還追分)あたりで、左の膝に違和感をおぼえはじめる。
 この日、天気がよくて日中の最高気温も十五度くらいあった。暖かくて、いつもより歩くペースが早くなったのがいけなかったのかもしれない。
 ファミリーマート春日部小渕南店で休憩する。
 十六時五十分。まもなく日没。そろそろ街道歩きを切り上げたい。西日に向かってひたすら歩く。
 北春日部駅まで四百メートルの標識が見えた。足が痛い。でもあとすこしだ。
 十七時五分、北春日部駅に到着。この日は東武日光線の幸手駅の街道筋の宿をとっている。
 北春日部駅から電車で幸手駅に行く......つもりだった。
 ところが、駅のホームで電車を待っていると、春日部駅と北春日部駅のあいだで踏切事故があったという案内が流れた。「伊興の三十分」がなければ、事故前に電車に乗ることができたはずだ。
 改札に戻ると、すでに何人か駅員さんに復旧の見通しを聞いている。「わからない」という。「一時間か二時間か......」みたいな反応だった。
 即、歩こうと決断。改札でさくっとスイカの払い戻しをしてもらい、歩いて東武動物公園駅を目指すことにした。東武動物公園駅はもともと杉戸駅という名称だった。近くに日光街道の杉戸宿もある。
 北春日部駅から東武動物公園駅までたった二駅。だいたい四キロくらいかな。そのころには電車も動いているだろう。
 日光街道だと遠回りなので、東武スカイツリーラインとほぼ並行して通っている県道85号を歩くことにした。
 街道歩きは日没までと決めているのだが、歩いているうちに完全に日が暮れる。LEDのヘッドライトを忘れたことが悔やまれる。 
 東武動物公園駅方面から歩いてきた人と何人かすれちがう。左膝が痛い。もう違和感ではない。膝をなるべく曲げずに歩く。
 朝からおむすび一個しか食べていない。さすがに空腹でへろへろになる。姫宮駅を一キロちょっとすぎたところにあるローソン宮代中島南店でごまあんまんを買う。もぐもぐタイム。人生で食べたあんまんでいちばんうまかった。元気が出た。
 東武動物公園駅まではあと一キロちょっと。最後の気力をふりしぼり歩く。約一時間かけて、ようやく十八時二十分に駅に辿り着く。平地はそんなに痛くないのだが、階段の上り下りがきつい(とくに下り)。改札まではエレベーターをつかった。
 ようやく改札に着くと、なんと、東武日光線も止まっている。東武動物公園駅から幸手駅までは電車で二駅だが、日が暮れて真っ暗だし、左膝はもう限界だ。
 やむをえない。「年に三回以内まで」と決めているタクシーに乗ることにした。
 運転手さんは踏切事故のことを知っていて、「さっき、岩槻までお客さん乗せて戻ってきたところだよ」という。東武動物公園駅から岩槻まではタクシーで五千円くらいだそうだ。
 岩槻は日光御成道(本郷追分から幸手宿)の宿場町である。最初に歩いた王子駅から田端駅に向かう途中も日光御成道を歩いていたのだが、疲労と膝の痛みで午前中のことはすっかり忘れていた。街道の縁をかんじる。タクシーの中で「いつか岩槻に行こう」と決意する。
 家に帰ってから調べると、岩槻宿から粕壁宿までの往還道(岩槻道・粕壁道)もあることを知る。歩きたいなあ。
 運転手さんに「仕事帰りですか?」と質問されたので「東京から歩いてきました」と答える。
「そういうお仕事なんですか?」
「いえ、趣味です」
 運転手さんには、日光街道を通ってもらった。
 幸手駅までではなく、日光街道と日光御成道の追分あたりで降ろしてもらう。料金は千九百九十円。おもわぬ出費だが、いたしかたなし。
 追分から宿までは歩いて十分くらい。
 左足をひきずりながら、旅館あさよろずにたどりつく。階段を一段ずつ両足を揃えないとのぼれない。
 あさよろずは一八一九年創業の老舗旅館だ。わたしは風呂トイレなしの部屋の素泊まりプランを予約していた。五千九百円。
 部屋に荷物を置き、晩飯を食いに行く。
 居酒屋みたいなところで酒を飲みながら食事をする。
 しばらくすると、三十歳前後くらいの男女二人客が来て同じカウンターに座る。最初の酒とお通しを運んできた店員さんがつまづいて、その酒とお通しを女性客のほうにかけてしまった。
 女性客激怒。「最悪」「信じられない」と連呼する。そのあいだ、男性客は何もいわない。その後も「最悪」「信じられない」とちゃんと数えたわけではないが、百回くらい言い続ける。
 わたしに怒りが向けられていたわけではないが、食欲が萎え、一杯目のサワーを飲み終えたところで店を出る。
 こんなことなら杉戸宿周辺の飲み屋で電車が動くまで飲んでいればよかった――とおもったが、後の祭りだ。
 コンビニで酒(ポケットサイズのサントリーの角)とおにぎり、つまみなどを買う。左足を引きずりながら宿に帰った。こんなにボロボロで明日歩けるのだろうか。

......続く。