第八回 幸手-関宿-境町-杉戸
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- 『利根川・隅田川 (1977年) (旺文社文庫)』
- 安岡 章太郎
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朝八時、旅館あさよろずを出る。日帰りもできたのだが、街道歩きは宿場町に泊るのも楽しみのひとつだ。前日に歩いた場所からそのまま出発できるのも気分がいい。
玄関で靴をはきながら、宿の人に「今年、創業二百年と聞いたのですが、何月に創業したかわかりますか?」と質問すると「もう誰も生きてないから、わからないねえ」とのこと。そのかわり「朝萬 宿札の方々」というコピーをくれた。
初代総理の伊藤博文、自由民権運動の板垣退助、維新の三傑の大久保利通......。すごい顔ぶれだ。
幸手宿は日光御成街道と日光街道の合流点に位置する宿場町である。ここにきて今回の旅の出発点の北区の王子と途中下車して歩いた日光街道の草加宿や粕壁宿などが結びついた。
幸手宿から日光街道を歩いて権現堂公園を目指す。左膝の痛みは昨晩お湯にゆっくり浸かったせいか、すこしおさまった。
幸手宿、いい町だ。町の雰囲気がのんびりしている。またひとつ好きな町ができた。「幸せな手」という名前もいい。
幸手宿は日光街道沿いだけでなく、脇道も面白い。ローソン幸手中四丁目店の手前で西に曲り、雷電神社を目指す。
このあたりは「荒宿」と呼ばれていた。
街道歩きのさい、寺社に寄っていると先に進めない。地図を見て計算した距離の一・五倍くらいは歩くことになる。階段も地味にきつい。
中世の幸手は田宮庄、田宮町といわれ、その中心に雷電神社があった(田宮神社とも呼ばれている)。
日光街道は中世の鎌倉街道とも重なっているらしい。王子も鎌倉街道が通っていたという説もある。といっても、鎌倉街道は謎だらけの道で、中世の古道の研究者のあいだでも意見が分かれる。
現在の幸手駅の付近に古河公方足利成氏が築いたとされる幸手城があった。これも幸手宿に来るまで知らなかった。城もあったのか。幸手宿、奥が深い。
雷電神社の案内板にはヤマトタケルの名前も記されていた。ヤマトタケル、どこにでも出没する。
幸手宿の「幸手」はアイヌ語で「乾いた土地」を意味する「サッ(ツ)」説、ヤマトタケルの東征のさいに立ち寄った島とされる「薩手が島」説があるようだ。
神社を出て再び日光街道の荒宿の信号付近に幸手の一里塚がある。江戸日本橋から十二里。北に向かって歩いていくと筋違橋という橋があった。内国府間(うちごうま)という地名が気になる。
権現堂堤の手前のセブン‐イレブン幸手北店でばくだんむすび(シャケマヨとコンブ)を買う。
幸手宿のあたりは江戸時代中期までは下総国(今の千葉県)だった。
権現堂堤は桜の名所として有名らしい。権現堂堤から、ほぼ遊歩道を歩いていけば、江戸川にぶつかり、関宿橋を渡れば、千葉県に入る。
権現堂堤のある幸手権現堂公園内のいちばん川(中川)に近い道を歩く。土の道は足が楽だ。広々とした気持のいい公園だ。
歩きながら、昨日、左膝を痛めた理由を考える。歩き方がよくないのか。おそらくそれもあるだろう。ただ、道というのは水はけをよくするため、端のほうが低くなっている。ずっと右側もしくは左側通行だと、わずかとはいえ、片足に負担がかかってしまうのではないか。仮説だが。今度、街道文庫の田中義巳さんに会ったら聞いてみたい。
公園を抜けると「権現堂河岸」という案内板があった。江戸川を利用した舟運の要所で、かつては権現堂川が流れていたが、鉄道の敷設により廃川になった――とのこと(権現堂川の廃川は一九二八年)。
すぐ近くに水神社がある。船頭たちが信仰したといわれる大杉様を祀った神社だという。
水神社のあと、中川沿いにある上吉羽1号緑道を目指す。名もなき公園があり、小猫が二匹......とおもったら一匹ずつ増え、五匹になる。縦に並んでこっちをじっと見ている。
上吉羽1号緑道はいい道だ。中川に沿って東に向かって歩けば、江戸川にたどり着く。
しばらくして幸手総合公園に到着。午前九時五十八分。宿を出てから二時間。ほぼ予定通り。この公園からは上吉羽2号緑道が続いている。
この日、二月上旬にもかかわらず、日中の気温は十五度ちかくまで上がった。こんなにずっと遊歩道を歩いた記憶がない。車の心配もないのでリラックスして歩ける。車の通行量の多い道を歩いているときと疲労度がまったくちがう。
幸手ひばりヶ丘工業団地の完成記念碑があった。昭和六十三年事業開始。ちょうど緑道と川のあいだに工場が並んでいた。プレス工場もあった。わたしの父も長年、三重県鈴鹿市の自動車とバイクの部品(車のバンパーやオートバイのカウルなど)を作るプレス工場で働いていた。一時期、埼玉の和光市の工場でも働いていたこともある。
自動車産業の町に生まれ育ったわたしは車の免許もなく、ひたすら街道を歩いている。
午前十時半、宇和田公園に到着する。今回の旅は街道歩きではなく、公園歩きみたいになっている。でも好きな道を自分の好きなペースで歩くのがいちばんだ。
どこを目指しているかというと、関宿(せきやど)という宿場町である。
わたしはこの連載をはじめる数年前から関宿のことを調べていた。
安岡章太郎著『利根川・隅田川』(旺文社文庫)に関宿の話が出てくる。この本は「川を見たい病」を発症するきっかけになった本である。
関宿は千葉県の最北端、「チーバくん」でいうと、ちょうど黒い鼻の先のあたりに位置する。
利根川の流れが近世になって大きく変わったことを知ったのも安岡章太郎の『利根川・隅田川』である。
《徳川家康が幕府を江戸に置くまでの利根川は、群馬、埼玉と、山地から平野に大体東南の方角に向って流れ、そのまま東京湾へ注がれていた》
近世の利根川東遷事業により、利根川は銚子に注がれるようになる。
この利根川の東遷は、その後の江戸の水運を変える大事業だった。江戸周辺の水害対策、さらに東北諸藩にたいし、利根川を関東の外堀にするという意図もあった。
中川や廃川になった権現堂川も利根川の東遷に関係している川である。
安岡章太郎は「利根川は、もとの流れにもどすべきだ」と書いている。
話がそれてしまったが、埼玉県と千葉県の県境、江戸川にかかる関宿橋が近づいてきた。セブン−イレブン関宿橋店でコーヒーを飲み、気合を入れる。
江戸川にかかる関宿高架橋に着いたのは午前十一時。さらに関宿橋が続く。橋の欄干の隙間が大きく、強風に煽られる。歩くペースを落とす。
十一時十一分、橋を渡り終える。千葉県だ。
そこから江戸川沿いではなく、関宿郵便局方面に向い、流山街道(千葉県の松戸市から野田市に至る街道)を歩く。
『利根川・隅田川』で安岡章太郎は関宿についてこんなふうに書いている。
《この利根川と江戸川の分岐点に当る町には、どうと言って見るべきものは何にもない。
実際、利根川の治水史、舟運史、あるいは旅行者の紀行、地誌などを読みあさって、この町へ来てみると、その何もないのには、拍子抜けする気力もないぐらいだった》
安岡章太郎は宿に戻り、中年の女性のアンマさんに「何か見るものはないか」と訊く。アンマさんは「鈴木貫太郎さんのお墓」と答える。
鈴木貫太郎は終戦内閣の総理大臣。おそらく日本の政治史の中でも極めて評価の高い政治家のひとりだろう。
子どものころの短い期間、鈴木貫太郎は関宿に育ち、晩年、この地で隠居生活を送っていた。しかし安岡章太郎は鈴木貫太郎に興味がない。
もっとも安岡章太郎が『週刊朝日』で「風土記・利根川」を連載していた一九六五年八月(翌年一月まで)ごろは、千葉県立関宿城博物館も鈴木貫太郎記念館もなかった。
安岡章太郎は『街道の温もり』(講談社、一九八四年)や『果てもない道中記』(講談社文芸文庫)という街道本も出している。
そんな街道界の大先輩にたいして文句をいうのは気がひけるが、この世に「見るべきものは何にもない」なんて場所はないとおもうぞ、章太郎。
わたしは安岡章太郎にかわって、実相寺(旧関宿城移築本丸御殿)の鈴木貫太郎の墓にお参りし、そこから北上し、鈴木貫太郎記念館に寄った。隠居中の鈴木貫太郎が庭の掃除をしている写真に見とれる。「ここに来る前に(鈴木貫太郎の)墓にも行ってきました」といったら、ボランティアの人に熱心なファンとおもわれたようだ。それほどでも。
書き忘れていたが、今年のはじめ、中野翠著『ズレてる、私!? 平成最終通信』(毎日新聞出版)を読んでいたら、この本にも「関宿」の話が出てきた。
中野さんはテレビ東京の『池上彰の戦争を考えるスペシャル第10弾 「日本のいちばん長い日」が始まった』を観る。
番組では鈴木貫太郎首相に焦点が絞られていたらしい(わたしは観ていない)。
《鈴木貫太郎は千葉県の関宿で育った人。それで関宿には鈴木貫太郎記念館がある。
実は、私の曽父母のお父さんが関宿藩の人で、私はファミリー・ヒストリー(『いちまき』新潮社)を書くために二度ほど関宿を訪ねたことがある》
『いちまき ある家老の娘の物語』を読むと、後日談のところで関宿のことを書いている。
《関宿というのは千葉県の最北端に位置している。
利根川と江戸川が分かれる、まさにその分岐点にあり、東は茨城県、西は埼玉県になっている》
中野さんのコラムを読み、わたしは千葉の関宿に行く使命をおもいだした。関宿そのものよりも埼玉、千葉、茨城の三県を歩いて渡りたいと考えていたことも。
鈴木貫太郎記念館から西に歩き、関宿関所跡、さらに北に向かって関宿城跡に寄る。関宿の旧跡には「川のフィールドミュージアム」という案内板がある。
十二時五十分、けやき茶屋で昼食。天ぷらうどんを頼み、もつ煮込みも追加する。この店の壁には関宿の地図、鈴木貫太郎関係の新聞や雑誌の記事のスクラップが貼られていた。
店の外には自転車がたくさん止まっている。幸手宿から関宿、それから茨城県の境町にかけてはサイクリングコースがある。
食後、千葉県立関宿城博物館に行く。関宿城は一九九五年に再建。けやき茶屋と関宿城は目と鼻の距離にあるのだが、階段がきつい。昨日と同じように一段ずつ両足を揃えながらのぼる。
博物館は日曜日だったせいか、子ども連れのお客さんも多い。
関宿は徳川期には箱根と並ぶ重要な関所が置かれていて、明治中期までは利根川流域随一の都市だった。
江戸川と利根川の両方の川から江戸に荷物を運ぶための物流拠点としてだけでなく、日光東往還の宿場町としても栄えていた。
日光東往還は、水戸街道の小金宿と我孫子宿間の追分と日光街道の石橋宿と雀宮宿間の追分を結ぶ道――久世街道とも呼ばれていた。
家に帰ってから県道の流山街道も日光東往還と重なっていたことを知る。事前にもうすこし調べておけばよかったと悔やむ気持もあるが、あまり調べすぎると歩いているときの新鮮味が薄れてしまう。その加減をどうするか、いつも悩む。
「日光」と付く街道は日光街道、日光御成道、日光東往還にくわえ、中山道の倉賀野宿から分岐する日光例幣使街道もある。
脇街道も含めて歩いてみたい街道がどんどん増えていく。
......自分はいつまで自分の足で歩けるのか。
街道を歩いていると、何度となく、そんなおもいが頭をよぎる。もしかしたら、街道好きの人の中にもそういう気持で歩いている人がけっこういるのではないか。
博物館内にはエレベータもあり、すべての階に行くのに利用した。なるべく階段の上り下りは避けたかった。とくに下り。
博物館を出て十分間休憩。靴と靴下を脱いで足の裏を揉む。これは宮田珠己著『だいたい四国八十八ヶ所』(集英社文庫)に学んだ。汗で靴下が湿ってくると、マメができやすくなる。
十四時ちょうどにけやき茶屋の前の道から茨城県に向かって出発する。
博物館の最上階の展望室から見えた関宿三軒家に寄って利根川を目指す......つもりが道をまちがえた。オイルコンパスを片手に方向を確認しながら歩いていたのにまちがえた。ひたすら川の方向に歩き、千葉県道17号にどうにか出ることができた。
多少遠回りしても目的地にたどり着ければよしとする。
あとはまっすぐ歩けば、利根川の境大橋だ。境大橋を渡り、道の駅さかいに行けば、東武動物公園駅行きのバスも出ている。バスは一時間に二本くらい。
境大橋も長い。橋の向こうにドン・キホーテが見える。しばらく利根川を見る。川の水が光っている。途中、ワンカップ大関を飲みながら歩いてくるおじさんとすれちがう。さすがに歩きワンカップは危険だとおもう。
橋を渡り終えるまでに十分くらいかかった。
さよなら千葉県、おじゃまします茨城県。住所は茨城県猿島(さしま)郡境町。十四時四十五分。幸手宿から境町まで、いろいろ寄り道したけど、約七時間で到着した。
どんなに遠い道のりでも歩き続けていればいつかはたどり着く。平凡だが、とても大切な人生の真理を学んだ気がした。しかし人生の真理は頭で理解しているだけでは何の役にも立たない。
道の駅さかいですこし休憩する。足、痛い。「のんびり、ゆったり さかい探訪 茨城県境町」というガイドマップをもらう。境町歴史民俗資料館もあるのか。この地図、距離がわからない。民俗資料館までは三キロ以上はありそう。往復六キロ以上。中年の旅に無理は禁物だ。いつの日か境町を「のんびり、ゆったり」歩きたい。
バス停に行くと、何かのスポーツの試合の遠征に来たとおもわれる小学生の集団(四、五十人)が並んでいる。「バスに乗れるのか?」とひるんだが、ここは大人の知恵をつかい、ひとつ手前の新吉町のバス停まで歩くことにした。百メートルくらい先にバス停があり、一、二分待っているとバスが来た。乗客は十人くらい。扉側の最前列の席(バスマニアのあいだでは「オタシート」と呼ばれている)に座る。
次のバス停で小学生の集団が乗り込む。みんな大きなスポーツバッグを持っている。サッカー部かな。席は一瞬で埋まり、通路もぎゅうぎゅう詰め。ひとつ先のバス停まで歩いてよかった。なんとなくズルをした気分だが。
バス停で人が乗ってくると、座っていた子たちは順番に席をゆずる。いい子たちだ。日本の未来は明るい。
ざっと数えたところ、七十人くらい乗っていた(路線バスの定員はだいたい八十人くらい)。
終点の東武動物公園駅よりすこし手前の駅入口のバス停で降りる。五百六十円。
駅前は渋滞していることが多い。だから駅の一つ手前ので降りるのがバス旅の鉄則である。しかし駅入口のバス停、駅まで五百メートルくらいある。
太平ショッピングモール(ベルクス杉戸店)という商業施設に寄った後、昨日歩けなかった杉戸宿を歩く。
日光街道はどの宿場町も電車の駅から近い。街道初心者にはありがたい。以後、駅から近い宿場町のことを「駅近宿場町」と呼ぶことにする。
杉戸宿の「本陣跡地前」という信号のところに来たが、本陣跡の場所が見当たらない。下調べを怠り、旧街道がどの道なのかもわからない。県道373号を春日部方面に向かって歩く。杉戸宿高札所があった。復元された新しいものらしい。また駅の方向に折り返し、幸手宿方面へ。杉戸宿、何とかの「跡」だらけ。「日光道中」と刻まれた馬頭観音像がある宝性院の近くまで歩いてみたが、膝の痛みでメモをとる気力がなくなる。日没まで歩くつもりだったが、東武動物公園駅に向かう。
十六時三十分、駅前のドトールでカフェオレを飲む。ドトールの創業者の鳥羽博道は埼玉県深谷市の生まれ。中山道の人だ。深谷宿も池田英泉(渓斎英泉)が絵を描いている。
一息ついて十六時五十二分の東武動物公園駅から東京メトロ半蔵門線直通の電車に乗る。春日部駅の発車メロディはクレヨンしんちゃんの曲だった。九段下駅で東京メトロの東西線に乗り換える。
ふと今回の旅で一度もJRに乗っていないことに気づいた。「東西線が中野駅止まりだったら、中野駅から高円寺駅まで歩いてみようかな」と九段下駅のホームで思案していたら、総武線直通の電車が来た。
高円寺駅のホームから改札までエレベーターをつかった。
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翌週、品川宿の街道文庫に行く。「日光街道関係の本をあまり見ない」と店主の田中さんに相談すると、出てくる、出てくる。本間清利著『補訂版 日光街道繁盛記』(埼玉新聞社、一九七五年)、秋葉一男編『埼玉ふるさと散歩 日光道・古利根川流域編』(さきたま出版会、二〇〇一年)などを買う。
『埼玉ふるさと散歩』によると、「杉戸宿の"杉戸"という地名は、不思議なことに古代・中世はもちろん、近世初期の史料にさえ見当たらない」とのこと。「杉戸」の地名は日光街道(道中)の杉戸宿ができてはじめて史料に登場する。杉戸宿の付近には杉の渡し場があり、「杉渡」から「杉戸」になったという......説もあるようだ。