第九回 平尾追分-上板橋-下練馬-下赤塚-白子
JR中央線の御茶ノ水駅(御茶ノ水橋口)から神保町の古書店街に向かう明大通り(下り坂)を歩く。途中、明大前交差点から山の上ホテル前に至る坂は甲賀坂、その近くに錦華坂がある。
学生時代から数えきれないくらい歩いてきた坂だ。今も週一回くらいは歩く。しかし街道歩きをはじめるまで道の名前や坂の名前を気にしたことがなかった。
下り坂を平地と同じ感覚で歩いていると、傾斜の分、歩幅が広くなる。早足になる。それで膝に負担がかかる。
膝痛中年のわたしは足に負担のかからない歩き方を研究中なのである。
坂を見つけると、歩幅を狭くし、下り坂を歩く練習をする。歩幅を意識し、足の裏が地面に接触するときの感触を確かめながら歩く。慣れないとけっこうむずかしい。まわりの人の歩くペースにひっぱられ、すぐ早足になってしまう。
神保町の東京古書会館にも寄り、山浦正昭著『歩く旅 歩く道 歩く人 私の歩く旅 実践ノート』(実業之日本社、一九九〇年)などを買った。『歩く旅~』の目次を見ると「江戸川を歩く オーバーナイト歩行(1)河口~関宿 六〇キロ」という回があった。
東京の葛西あたりから千葉の関宿まで歩いている。しかも真夏に。他の著作はまだ読んでいないが、山浦さん、すごい人かも。
歩きたい道がなくなったら国が滅びる――みたいなことも書いている。同感だが。
そのあと扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が築いた江戸城(千代田城)の近くまで歩き、東京メトロ東西線の竹橋駅から地下鉄に乗って家に帰った。
*
三十年前の一九八九年春、わたしは郷里の三重から東京に移り住んだ。はじめて東京で暮らした町は東武東上線沿線の下赤塚だ。
昨年、中山道の板橋宿を散歩したとき、東武東上線沿線沿いの道(一部そうじゃないところもある)が川越街道だと知った。
川越街道は板橋宿の平尾追分から川越城までの道である。途中、下赤塚も通る。地図を見ているうちに歩きたくなる。
板橋宿から川越城までは八里六町(三十二キロちょっと)。昔の人なら一日で歩いた距離だ。二日かければ、どうにかなるだろう。
地図とインターネットの宿・ホテル予約サイトを見ながら宿泊先を検討する。
板橋宿と川越城の中間あたりにある東武東上線の和光市駅と朝霞駅周辺の宿を調べる。朝霞駅のほうが二千円くらい安い。
心配なのは朝霞駅付近の宿場町の名前が「膝折宿」ということだ。膝痛中年としては、ちょっと不安だ。しかし結局、朝霞駅周辺の一泊四千円台のホテルを予約した。御茶ノ水の下り坂訓練の成果を見せてやろうではないか。
二月十七日(日)、JR中央線の高円寺から朝八時二十一分の電車に乗り、JR埼京線の板橋駅へ。
軽い気持で板橋駅の滝野川口に出た。線路の反対側(板橋宿のあるほう)に行けない。抜け道だとおもったら駐輪場に出てしまう。交番で板橋駅の地下通路の場所を教えてもらう。
午前九時、いたばし観光センターへ。ここでマップを入手する。板橋区の観光マップは二十三区でもトップクラスなのではないか。「いたばしまちあるきマップ」は「板橋エリア」「常盤台エリア」「志村エリア」「高島平エリア」「赤塚エリア」の五種。さらに「板橋区文化財マップ(平成30年度版)」や「観光いたばしガイドマップ」、それからコピーの「川越街道の道すじ」や「中山道板橋宿」の地図(複数枚)もある。
昨年、中山道の板橋宿を歩いたときは「板橋区文化財マップ」がすごく役に立った。
今回の旅に合わせて板橋区立郷土資料館開館20周年特別展『川越街道展 板橋から川越まで 人・道・歴史』(一九九二年二月発行)という図録をインターネットの古本屋で購入した。届く。よくあることだが、すでに持っていた。また富裕層への道が遠のいた。
一四五七(長禄元)年、太田道真、道灌親子が川越城、江戸城を築き、そのふたつの城を結ぶ道として整備したのが川越街道だ。
江戸期には川越街道は「川越往還」「脇往還」と呼ばれていた。川越からは児玉往還という街道がある。川越街道・児玉往還は、中山道の脇往還として賑わい、人の行き来も多かった。
『川越街道展』の「川越の城下町と川越街道」(川越市立博物館の大野政己さん)は川越街道について重要な指摘をしている。
《川越街道の起源については中世の太田道真・道灌による江戸、川越の築城や道興准后(どうこうじゅごう)の東国巡訪などにより江戸・川越間の古道の存在が想定されるが、その詳しい道筋は今のところ不明である》
川越街道にかぎらず、旧街道の道筋はよくわからない(江戸時代のあいだにも道筋は変わり続けている)。時とともに道は変わるし、川の流れも変わる。町もそうだ。すくなくとも不変のものではない。
つまり、今回歩くルートが川越街道から外れていたとしても気にしなくてもいいわけだ。歩きたいように歩く。それがいちばんだ。
午前九時二十分、板橋宿の平尾追分から板橋JCT(ジャンクション)をくぐり、川越街道のYOU-ZA OYAMAという商店街を目指す(YOU-ZAは「遊座」ということを知る)。
東武東上線の踏切にひっかかる。東武東上線はTJライナー、快速急行、快速、急行、準急、普通があり、普通(各駅停車)以外の電車は池袋駅~成増駅間は止まらない。
午前九時四十五分、ハッピーロード大山に到着。伊勢屋餅菓子店で茶飯と明太子のおにぎりを買う。
人気の商店街だけあって、午前中からたくさんの人が歩いている。歩いている人が多い町はいい町だ。いい町だから歩きたくなる。
商店街を抜け、川越街道(国道254号)に出る。その先の北西方面斜めに旧街道があり、上板橋宿(下宿・中宿・上宿)に入る。
上板橋宿が宿場になったのは幕末で宿場町としての歴史はそんなに古くない。
東武東上線の「中板橋駅入口」の信号を越え、西に向かって歩いていると石神井川の下頭橋(けとうばし)と六蔵祠がある。
わたしのほかにも観光ボランティアの人といっしょに歩いているグループがいた。
弘法大師がどうのこうのと話している声が、かすかに聞こえた。日本中のあちこちに空海は出没する。暇だったのか。
下頭橋を渡り、下頭橋通り共栄会という道を歩き、板橋中央陸橋へ。
ここで「いたばしまちあるきマップ 常盤台エリア」の地図を見る。道の向こうに長命寺という寺がある。
国道の川越街道をすこし進み、南ときわ台公園のところでときわ台駅に向かい、板橋区立中央図書館に行くことにした。途中、天祖神社、森の番所というところに寄る。「いたばしまちあるきマップ」は有能である。
下赤塚に住んでいたころ、板橋区立中央図書館をしょっちゅう利用していた。
三階の郷土資料のコーナーに行くと『中仙道文学碑』という自費出版とおもわれる本があった。筆者は加藤左三(七十一歳)。字も絵もすべて手書きだ。
《私は何故か若い頃から東海道・中仙道の空を憧れ続けてきた。最大の思い出は、老いの身で単身中仙道を歩いたことである》
ノートの日付は「昭和四十六年十二月」だが刊行されたのは「平成二十二年六月十五日」。おそらく加藤左三さんの親族の方が出版したのだろう。
加藤さんは梅雨時の街道歩きは避けていたようだ。
いろいろ街道関係の資料を見ているうちに十一時十分。歩かなきゃ。
川越街道に戻る途中、両手を広げたくらいの幅の小さな踏切にひっかかる(南常盤台二丁目あたり)。
街道歩きをはじめてから、これまで読んできた本を「街道眼」を駆使して再読している。「街道眼」とは、街道、往還、道中、宿場、宿駅、本陣、一里塚、常夜燈といった街道ワードを見落とさない眼力を意味する。
上京当初の思い出の本に泉麻人著『東京23区物語』(新潮文庫)がある。文庫版の奥付をみると、昭和六十三年十月五日になっている(この本、単行本と文庫で内容が大幅に変わっている)。
わたしが下赤塚に移り住んだのは『東京23区物語』の文庫が出た翌年の二月のはじめである。真っ先に「板橋区」の頁を読んだ記憶がある。
今読み返すと板橋区の説明に「中仙道」、東武東上線の説明に「川越街道」が出てくる。まったくおぼえてなかった。
かれこれ三十年くらい泉麻人の著作を読んでいるが、わかりやすい文章の背後には膨大な知識がある。いつ仕事をしているのかわからないくらい町を歩いている。バスにもしょっちゅう乗っている。暇なのか。
板橋区のところには「成増と常盤台」というコラムがある。
《東武東上線沿線の駅前は、先の常盤台北側一帯をのぞいて、原則として「毒蝮三太夫」「橘家円蔵」「大木凡人」らが来やすいような町並みに仕上がっています》
この本で常盤台が板橋区における高級住宅地だということも知った。
たしかにきれいな家がたくさんあった。
南ときわ台公園のあたりには戻らず、四百メートルくらい先の「東新町」の信号付近の川越街道に出る。
しばらく歩くと旧道ではない川越街道と茂呂山通りが交差するあたりに「五本けやき」が見えた。道の真ん中にけやきの木が五本ある。「川越街道の道すじ2」によると、昭和十年代に川越街道の拡幅工事のさい、上板橋村の飯島弥十郎村長が屋敷林の一部を残すことを条件に土地を提供したそうだ。
旧街道に戻って東武練馬駅方面に歩く。練馬区エリアは「いたばしまちあるきマップ」に載っていない。
街道や宿場町の文化のためには、市区町村の横のつながりが必要なのではないか。
八ヶ月間、下赤塚に住んでいたが、隣の東武練馬駅の近くが宿場町であることを知らなかった。
ぴったり正午に下練馬宿(北一商店街)に到着する。
セブンイレブン練馬北町1丁目店の近くに「下練馬の大山道道標」がある。環状8号線の工事で元の場所から八メートルほど移動したらしい。大山道の石塔の上には不動明王の像が載っている。大山道は大山街道とも呼ばれている。神奈川県の大山阿夫利神社に向かう道の総称である。「五本けやき」より動かしちゃいけないのはこっちだとおもう。
大山街道も気になっている。歩きたい。
下練馬宿の中宿へ。下練馬の富士塚(北町浅間神社)に寄ってみた。富士塚に登ってみた。富士山を模した塚で五合目とか八合目とか記されていた。わりと急。頂上まで登ったが、富士山は見えなかった。無駄に体力を消耗した。
浅間神社に旧川越街道の説明があった。「栗(九里)より(四里)うまい十三里」というのは川越藷(いも)の宣伝文句だったと知る。
ただし江戸から川越までは十里ちょっとなので十三里というのは誇張らしい。
北町上宿公園で休憩。この公園付近も川越街道の宿場町として栄えていた。
そのまま旧街道を歩いていくと、東京メトロの地下鉄赤塚駅の手前で国道の川越街道に合流する。合流点の近くに司書房という古本屋がある。一泊以上の街道歩きのときはなるべく古本屋に寄らないことにしているのだが、店の外の均一台に『熱闘! 日本シリーズ 1978 ヤクルト-阪急』というDVDを見つけてしまう。
村上春樹はこの年の四月一日に神宮球場の外野席でデイブ・ヒルトンが二塁打を打った姿を見て小説を書こうとおもったという逸話もある。
その四年後に村上春樹はマラソンをはじめる。
後から知ったのだが「小江戸大江戸200k」という川越街道も通るウルトラマラソンがある。わたしが歩いた一週間後の二月二十三日(土)~二十四日(日)に第九回の大会が開催された。
文学と野球とマラソンと街道はつながっている。
話がとっちらかってしまったけど、かつて地下鉄赤塚駅は営団赤塚駅だった(二〇〇四年に改称)。下赤塚は東武東上線、東京メトロ(当時は営団地下鉄)、都営三田線の西高島平駅も利用できた。交通の便はとてもいい。
地下鉄の駅の近くに庚申塚があり、木が三本(四本?)はえている。一説にはこのあたりは鎌倉街道が通っていたそうだ。鎌倉街道はわけがわからないので、(今のところ)足を踏み入れないようにしている。
十二時五十五分。川越街道をいったん離れ、東武東上線下赤塚駅へ。赤塚壱番街を歩く。町の雰囲気が変わっている。
ずっと電車で行き来していた場所に歩いて辿り着くと、それだけで達成感がある。
父とわたしが暮らしていた風呂なし、台所トイレ共用の月千円(光熱費込み)の会社の寮(別々の部屋だった)はこの商店街を抜けた先の下赤塚小学校のすぐ近くにあった。
篠塚稲荷神社の前を通り抜けると......。
もうない。知ってた。高円寺に引っ越してから二回くらい下赤塚を訪ねているので。七、八年くらい前に行ったとき、すでになかった。
当時、通っていた銭湯も一年くらい前になくなっている。
「赤塚系ギャグマンガ」で知られる風間やんわりは下赤塚小学校の卒業生である。二〇一三年十月、三十六歳で急逝した。最初「赤塚系ギャグ」は赤塚不二夫系ギャグの意味だとおもっていた。
風間さんは一九七七年生まれ。わたしが下赤塚小学校の近所にいたころ、六年生だった。
それから二〇〇二年六月に三十九歳で亡くなったナンシー関も下赤塚に一時期住んでいた。どこかですれ違っていたのかなあ。
十三時二十五分、赤塚六丁目の赤塚しのがやと公園。しのがやとは漢字で書くと「篠ケ谷戸」。もともとこの公園のあたりは前谷津川という小河川が流れていた。
赤塚六丁目は坂が多い。階段も多い。下赤塚、何もかもみな懐かしい。
前述の『東京23区物語』によると「赤塚台地の一帯は起伏に富んだ地形をしており、道路整備が不充分だった昭和30年代までは、台風や大雨の際に土砂崩れがよく起こる土地でした」とある。
『東京23区物語』には続編の『新・東京23区物語』(新潮文庫、二〇〇一年)という本もある。
板橋区のところには「成増人と東京大仏」というコラムが収録されている。
《ところで、この東京大仏が建つ山には、かつて赤塚城という城が、その東方にはもう一つ志村城という、いずれも豊島一族の城が築かれていました。江戸の北から攻め口を塞ぐ要塞、という意味合いがあったのでしょう》
わたしが向かっているのも東京大仏と赤塚城だ。途中、赤塚植物園もある。下赤塚駅方面から植物園に向かう道には急な下りの階段がある。行き止まりの道も多い。
十三時五十五分、東京大仏に到着。黒い。十四時七分、不動の滝公園に寄る。意味がありそうでなさそうな雰囲気の階段をのぼると、そこは駐車場だった。また無駄に体力を消耗してしまう。不動の滝もチョロチョロとしか水が流れていない。
ついに赤塚城跡だ。
一四五六(康正二)年、古河公方足利成氏に攻められた下総の千葉氏(千葉実胤・自胤兄弟)が市川城を逃れ、赤塚城(他の城にも)に入城し、戦国時代の居城にした。
古河公方足利成氏は前回歩いた幸手宿や関宿(千葉)でもその名前を見た。
赤塚城跡の階段を下り(きつかった)、板橋区立郷土資料館へ。『板橋宿の歴史と史料』『特別展 板橋の近代のあゆみ』というパンフレットを購入する。『川越街道展』の図録は品切らしい(わたしは二冊持っている)。渓斎英泉の「木曾街道 板橋之驛」の絵のクリアファイルも買った。
今年一月に増田晶文著『絵師の魂 渓斎英泉』(草思社)という時代小説が刊行された。英泉ブームがきている。
郷土資料館を出て、地下鉄赤塚駅付近の川越街道には戻らず、けやき並木(赤塚氷川神社の参道)を通り、東武東上線の成増駅を目指す。
不動の滝(の近くの階段)と赤塚城跡のせいで左膝が痛みだす。これから和光市の白子(しらこ)宿を経て朝霞市の膝折宿まで歩かねばならぬというのに大丈夫なのだろうか。
膝折宿――なんでそんな名前をつけちゃうかなあ。
十五時二十分、成増駅のエキア成増の寿し常で食事。おまかせ八貫セット(味噌汁と茶わん蒸し付)。九百二十円。
なりますスキップ村(スキップ通り)という商店街を通って川越街道(旧道)へ。
新田宿八坂神社と新田坂の石碑群を通る。板橋区唯一の道祖神らしい。
十六時十分。白子橋を渡る。和光市だ。ようやく埼玉県に入った。橋のたもとに清水かつらの「靴が鳴る」の歌碑がある。関東大震災後、詩人の清水かつらは埼玉県の白子村に移り住んだ。
和光白子郵便局のある交差点に出て、大坂ふれあいの森を目指す。「湧き水の町白子宿」という看板がある。なかなかの坂だ。
三年前に亡くなった父が勤めていた自動車の部品を作るプレス工場も和光市にあった。
郷里の三重県鈴鹿市にも伊勢街道沿いに白子(白子宿)という町がある。なんとなく和光市とは縁をかんじる。町の雰囲気も似ている。
十六時三十分、大坂通りを抜け県道109号に合流する。
ここにきて東京外環自動車道の第三小学校前歩道橋が行き先を遮る。といっても、この歩道橋は段差が小さくて歩きやすい。それでも左膝がつらい。心なしか右膝もつらい。両足とも曲げると痛い。「足が棒になる」というのはこのことか。
歩道橋を渡り終え、靴と靴下を脱いで休憩する。足の裏とふくらはぎを揉む。
十分くらい休憩。白い月が東に見える。十七時すぎ、ようやく和光市駅入口の信号のところまできた。ローソン和光本町店でごまあんまんを補給し、ラストスパートをかける。
日没との競争だ。負けへんで。いや、勝てる気がしない。遠いよ、朝霞。和光と朝霞のホテルの二千円の差の意味がわかった気がした。
足の疲れと痛みは限界に近い。
十七時四十分日没。膝折宿は遠かった。
(......続く)