第十回 膝折-大和田-大井-川越

  • 愛の山田うどん ---廻ってくれ、俺の頭上で!!
  • 『愛の山田うどん ---廻ってくれ、俺の頭上で!!』
    北尾 トロ,えのきど いちろう
    河出書房新社
    1,512円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • F党宣言!---俺たちの北海道日本ハムファイターズ!
  • 『F党宣言!---俺たちの北海道日本ハムファイターズ!』
    えのきど いちろう
    河出書房新社
    7,823円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • 時刻表2万キロ (河出文庫 み 4-1)
  • 『時刻表2万キロ (河出文庫 み 4-1)』
    宮脇 俊三
    河出書房新社
    680円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 板橋から川越を目指して歩き、途中、朝霞市に宿をとった。あちこち寄り道していたら、和光市のあたりで日が暮れた。
 ゆっくり歩いても十七時ごろには到着するとおもっていたのだが......。
 日没後、ローソン和光本町店を出て数百メートルほど歩くと朝霞市に入った。栄町4丁目の信号で朝霞駅方面に曲る。
 道の先、駅のほうが明るい。町の灯は希望だ。膝の痛みが軽くなる。まさに朝霞=膝折宿だ。
 十八時五分、東武ストア朝霞店でたこ焼と酒を買う。東武東上線朝霞駅には十八時二十分に着いた。
 板橋宿の平尾追分から朝霞駅まで九時間くらいかかった。東武東上線の準急で池袋駅から朝霞駅まで十六分(二百五十円/IC運賃は二百四十七円)。
 この日はホテルリブマックス埼玉朝霞駅前に宿泊した。四千五百円。今回の宿は室内に風呂とトイレがある。大浴場(男湯のみ)もある。膝の痛みはお湯(熱い湯がいい)につかると緩和する(個人の意見です)。
 風呂からあがり、酒を飲み、たこ焼を食う。膝の痛みがすこしおさまったので駅のほうまで歩き、風風ラーメン朝霞南口店でとんこつラーメンを食べる。
 ワールド・リサーチ・ネット編『モノの見方が変わる大人の地理力』(青春出版社)を読んでいたら、四十七都道府県でもっとも「市」の数が多い県が埼玉県とあった。中山道、日光街道、川越街道が通り、宿場町が多かったのも「市」が多い理由だそうだ。街道がちがうと町の雰囲気も変わる。

 翌日二月十八日(月)、午前七時に宿を出る。
 朝霞の宿から川越街道に戻ると大泉学園(東京・練馬区)行きのバス停があった。大泉学園までは六、七キロというところか。けっこう近い。
 埼玉の街道のことを調べていたら、テレビ埼玉(テレ玉)で毎週日曜日に「演歌街道」という番組を放映していることがわかった。また新しい街道の名前を知ってしまった。
 公園通りを南に歩いて旧川越街道(県道109号)を目指す。
 午前七時三十分、幸町3丁目の信号。その少し先に旧街道の入口がある。そういえば、膝折宿に入ってから宿場町っぽいものをまだ見ていない。寄り道して並流山一乗院というお寺に行く。
 七一六(霊亀二)年、高麗人が武蔵国(現在の入間付近)に移住した――うんぬんかんぬん。
 このあたりはかつて新羅郡と呼ばれていた。
 街道について調べていると「塩の道」「馬の道」「鉄の道」といった二つ名をよく目にする。古代の日本では馬や鉄の技術は渡来人や帰化人がもたらしたというのが定説だ。
 街道筋には新羅(白木)、高麗(駒)など、渡来人由来の地名がけっこう残っているのは、たまたまではない。
 街道の多くは、鉄の産地、馬の放牧地を通る。わたしはそういう歴史を知るとワクワクしてしまう。
 午前八時、一乗院を出て再び旧川越街道(県道79号/朝霞蕨線)に戻り、ドブ板歩道がはじまる。
 しばらく歩くと高麗家住宅(膝折宿脇本陣)があった。
 膝折町1丁目の信号の手前で立ち止まる。五差路か。この道にぶつかったとき、ふと「迷」という漢字が頭に浮んだ。なぜしんにょうに米で「迷」なのか。米は十字路の象形らしいのだが、五差路を見たとき、瞬時に「迷」という文字の成り立ちがわかった。
 自信はないが左折してみた。黒目川を渡った。
 膝折町3丁目の信号がある。また道が二つに分かれる。妙な細い坂道に入ってしまう。しばらく歩いていると「横町の六地蔵 庚申塔」があった。
 西に向かって歩くと野火止大門の交差点。午前八時三十四分。
 JR武蔵野線の新座駅が近い。大和田宿はどんなところなのだろう。
 地図で見た新座市は西武池袋線の清瀬駅あたりの尖った部分が東京都に刺さっているかんじがした。最南端は西武池袋線のひばりヶ丘駅まで数百メートルだ。郷里の三重県鈴鹿市にいたころ、和光市や新座市からの転校生が何人かいた。みんな、元気だろうか。
 新座市は志木街道も通っている。志木街道は東京の小平市で青梅街道と合流する。
 旧川越街道と志木街道が交差するのは新座駅近くの野火止上の信号付近――。
『川越街道展』(板橋区立郷土資料館)の「野火止用水・武蔵野開拓」によると「別名伊豆殿掘と呼ばれる野火止用水が開かれたのは承応四年(1655)」で「江戸へ給水していた玉川上水を、唯一私領へ分配し、野火止の新田開発にあたった」とある。
 野火止は膝折宿と大和田宿の「中間の宿」でもあった。
 ローソン新座野火止六丁目店でごまあんまんを買おうとしたら売り切れ。まだ早いということか。
 川越街道を離れ、すこしだけ志木街道を歩いてみた。野火止上の信号から野火止の信号まで、三百メートルくらい。
 またひとつ新しい街道を歩いてしまった。道の名前を知る。そこを歩く。それだけのことがなぜこんなに楽しいのだろう。人間の脳の不思議について考えてしまう。
 わたしは駅前を見ないとその町に来た気がしない。ずっと東武東上線沿いの道を歩いてきたが、新座駅は東上線ではなく、JR武蔵野線なのである。突然JRになるのは変なかんじがする。
 新座駅には午前九時十八分に到着した。とりあえず休憩したい。駅の構内にドトールがあった。ドトールの社長は......この話は前にも書いたか。
 午前九時四十分、ドトール休憩後、キッチンオリジン新座駅前店で明太子のおにぎりを買い、駅の北口から川越街道に戻る。
 大和田小学校の横を通り、ようやく大和田宿に来たことを実感した。
 長い下り坂が続く。鬼鹿毛の馬頭観音がある。川越街道の案内板もある。
 北西に歩き、柳瀬川(英橋)で国道254に合流するのだが、眼前に英(はなぶさ)インターチェンジが待ち受けている。ハーフクローバー型のインターだ。
 午前十時、柳瀬川に川越街道案内板があり、「川越駅12km(200分/min)」と記されていた。
 跡見学園女子大学の新座キャンパスが見える。右側通行だと前から走ってくるトラックの風圧がきついので大学のある左側に渡りたいのだが、信号がなかなか変わらない。歩道橋はあるが、膝のことを考えると渡りたくない。
 森鷗外の妻・赤松登志子は跡見女学校の卒業生。二〇一五年に跡見学園女子大学は鷗外の「舞姫」の自筆原稿を取得している。
「舞姫」の原稿は「したよし」の通称で知られる吉田書店の吉田吉五郎や弘文荘の反町茂雄といった古本界の有名人のところを渡り歩いてきた。
 街道散策中、石碑や案内板を見るために道路の右と左を行き来する。交通量が多いとそれができない。
 しばらく歩くと道の真ん中に「川越街道」と刻まれた大きな石碑があった。
 資料館入口の信号のところまで来た。青信号でも車が右折してきて渡れない。資料館は三芳町歴史民俗資料館である(月曜日は休館日)。
 信号から二百メートルほど歩いたラーメン雷豚三芳店の駐車場から富士山がきれいに見えた。川越街道を歩いている途中、富士山のことを忘れていた。
 埼玉県三芳町には「いも街道」という街道もあるようだ。富の川越いもがこのあたりの名産らしい。
 ローソン三芳竹間沢店でごまあんまん。最後の一個だった。店内のテーブルで地図を確認する。
 旧街道(旧大井村役場)まで四キロくらいある。疲労よりもトラック恐怖症になっている。クマより怖い(クマに遭ったことはないが)。
 午前十時五十分。大井宿まであとすこし。歩道が広くなる。植え込みがあり、木目調の柵もある。
 しばらく歩いていると「元プロ野球選手坂元弥太郎による野球スクール」の看板が見えた。歩く速度でなければ、見過ごしていたかもしれない。
 野球スクールの入口には坂元投手に関する新聞や雑誌の記事が貼られていた。
 浦和学院高校時代の二〇〇〇年夏の甲子園で一試合十九奪三振を記録した投手だ。その試合、わたしはテレビで観ていた。二〇〇一年、ヤクルトスワローズに入団(ドラフト四位)。ピッチングフォームもかっこよかった。
 坂元投手はその後トレードで日ハムに移籍し、横浜(現DeNA)、西武で活躍し、二〇一三年引退――セ・リーグとパ・リーグを行き来する流浪のプロ野球街道を歩んだ。
 午前十一時八分、再び川越街道に戻る。
 藤久保の信号。午前十一時二十六分。また道の真ん中に川越街道の石碑がある。川越駅まであと九キロ。今、埼玉県入間郡にいる。
 昼すぎくらいには川越に着いてしまうかもしれない。
 東武東上線の鶴瀬駅までは一・五キロくらい。鶴瀬駅の次がふじみ野駅。川越街道大井宿のもより駅だ。
 午前十一時五十五分、ふじみ野市。またまた道の真ん中に川越街道の石碑がある。しばらく歩くと「大井弁天の森」の看板が見えた。大井宿の気配を感じる。
 大井戸跡に寄る。発掘された井戸は平安時代に作られたものらしい。
 このあたりからちょっとした寄り道もしんどくなってきた。車の通行量の多い道を歩いていると神経が磨り減る。前後から走ってくる自転車もけっこう危ない。避けようとすると、こっちに向かってくる。ミラーニューロンのせいか。
 江戸の旅人が一日四十キロくらい歩いていたと知ったときは、その健脚ぶりに感心したが、昔の街道はこんなに車や自転車は走ってなかった。このあたりで両膝が痛みだす。

 十二時二十分。山田うどん食堂ふじみ野店が見える。入る。野菜うどんを注文する。旅行中のメモに「野菜うどん。超回復」と書いてあった。元気がないときは温かいものを食べるべし。それが人生の鉄則だ。
 北尾トロ、えのきどいちろう著『愛の山田うどん 廻ってくれ、俺の頭上で!!』(河出書房新社)をおもいだした。
 山田うどんは、うどん以外のメニューもたくさんある。埼玉県民のソウルフード。安心感のある味。山田うどんならいつでもいけそうだ。
 えのきどいちろうさんは、日ハムのファンで『F党宣言 俺たちの北海道日本ハムファイターズ!』(河出書房新社)という本を出している。坂元弥太郎選手のこと、おぼえているかなあ。
 十二時五十分。旧大井村役場に到着。そのすこし先のところで道が分岐している。再び旧街道っぽい道に入る。車の通行量が激減する。
 江戸時代以前の大井宿は大井郷と呼ばれていた。中山道の宿場町ほど規模は大きくないが、駄菓子屋、酒屋、油屋、うどん屋、木賃宿など、いろいろな商いが行われていたようだ。
 角の常夜燈、地蔵院、亀久保神明神社の前を通り抜け、旧街道っぽい道が終わる。
 ふじみ野市のホームページを見ると、亀久保のあたりに鎌倉街道と伝承される古道があるとかなんとか......。
 長年の古本屋通いによって培った勘が「鎌倉街道は底なし沼だ」と警告する。たぶん鎌倉街道のことを調べはじめたら一生抜け出せない予感がする。
 亀久保の信号から国道に戻る。上福岡駅西口入口の信号が見えてきた。川越街道と上福岡駅はすこし離れている。
 上福岡には元巨人の條辺剛投手が営む「讃岐うどん 條辺」がある。現役引退後、香川で修業した。プロ野球選手の引退後を追ったドキュメンタリーでも條辺投手の回はいまだに語り草になっている。
 野球とうどんと街道はつながっている。
 しばらく歩くと鶴ヶ岡八幡神社のところで道がまた分岐している。
 ふと手前の歩道橋を見ると「ようこそ小江戸川越へ」という文字が見える。
 ゴールが見えてきた。左の細い道のほうを歩く。藤島中宿跡(旧川越街道)の石碑がある。
 十四時二十分。その先のコープみらいで休憩する。膝だけでなく、両足のふくらはぎも痛みだす。地べたに座り、靴下をはきかえる。わたしのまわりを買物客が避けていく。
 出発前、板橋宿から川越城までの道のりを調べていたとき、東武東上線の上福岡駅か新河岸駅あたりで新河岸川沿いを歩いて川越を目指すという案も検討していた。
 川越といえば、川だ。地図を見るかぎり、新河岸川沿いは河岸跡など、舟運遺構がけっこう残っている。
 コープみらいで休憩中、また川越街道から新河岸川ルートを歩くかどうか悩んだ。遠回りになるが、川沿いの道なら車の通行量も少ないだろうし、水を見ながら歩きたい。
 江戸時代に川越が栄えたのは水運のおかげである。川越は農産物や木材の集積地だった。ほとんどの家を木で作り、火力も薪だったころ、木材の価値は今とは比べ物にならないくらい高かった。
 思案の末、そのまま川越街道を歩くことにした。ふたつの道を同時に歩くことはできない。人生の真理だ。
 砂新田春日神社の前を通り、川と橋があるが、くずし字で読めない。家に帰ってから調べたら、川の名前は不老川、橋の名前は御代橋だった。
 不老川の川沿いを歩いていけば、新河岸川ルートに行ける。日光街道を歩いたときの川沿いの道の気持よさをおもいだし、また迷う。草加、春日部、幸手の道が懐かしい。いい道だったなあ。
 ようやく烏頭(うとう)坂に到着する。家で地図で見たときは鳥頭(とりあたま)坂だとおもっていた。
 旧街道はここで終わり。
 街道歩きをしている人たちは交通量の多い国道や県道をどう楽しんでいるのか。それともひたすら耐えているのか。
 十四時五十分。川越駅まであとすこし......とおもいきや、再び歩道橋があらわれた。しかも小学生の下校時間とかち合ってしまい、何人かがふざけてぴょんぴょん跳んで歩道橋を揺らす。勘弁してほしい。二日かけて川越まで歩いてきた膝痛ふくらはぎ痛中年の旅人にたいし、この仕打ちはないよ。長い歩道橋なので気持わるくなるくらい揺れる。
 最後の最後にこんな歩道橋があるんだったら、新河岸川沿いの道を歩けばよかった。
 川越市は川越街道と児玉往還以外にも旧上尾街道、入間川街道、大田街道、河岸街道、お成り街道などの街道が通っている。
 下り坂歩きの練習のときに神保町の東京古書会館で買った『小江戸ものがたり』第四号(川越むかし工房、二〇〇三年)というタウン誌に桶川街道や川越トスカーナ街道という名前が出てきた。いずれも川越市谷中あたりを通っているらしい(地図では見つけられなかった)。
 川越街道と中山道の桶川宿を結ぶ脇街道なのだろうか。そういう道があってもおかしくない。
 桶川宿にはさいたま文学館がある。川越から桶川まではバスで行ける。しかし今日は月曜日。さいたま文学館は休館日である。
 ようやく駅らしきものが見えてきた。十五時三十分、ついにJR川越線、東武東上線の川越駅に到着する。
 川越生まれの作家といえば、元編集者で紀行作家の宮脇俊三がいる。ただし『私の途中下車人生』(角川文庫)を読むと、満一歳のときに川越から渋谷に引っ越したようだ。
 デビュー作の『時刻表2万キロ』(河出書房新社)を刊行したとき、鉄道マニアの中には宮脇さんに「なにか証拠はあるんですか」といってくる人がいたという。
「不愉快でしたね。こちらは、べつに記録をつくろうと思っているわけでもなければ、目的があってやっているわけでもないですから」
 わたしも街道を歩いた証拠はない。写真も撮ってない。でも歩いた時間は自分の記憶の中に残っている。楽しいから歩く。気持いいから歩く。つらくても歩く。今はそれでいいとおもっている。
 駅の観光案内所で「川越散策マップ」をもらう。
 西武新宿線の本川越駅に向い、川越街道ではなく、クレアモールを歩くことにした。
 二月の平日の夕方なのにすごい人だかり。前から歩いてくる人を避けながら歩く。箱根や伊豆の観光客が激増しているという話はニュースで見たが、川越がこんなことになっているとは......。高円寺に帰ってから「川越、土曜日の新宿や渋谷くらい人がいた」と近所の飲み屋で喋ったのだが、誰も信じてくれなかった。
 川越熊野神社のところを東に曲り、成田山川越別院、喜多院(慈恵堂)などを通る。
 喜多院入口の信号から浮島稲荷神社の横の道に入り、北に向かって歩く。このへんまで来ると人はあまりいない。
 十六時二十五分、川越城本丸御殿に到着する。
 朝霞市のホテルを出てから川越城まで九時間二十五分かかった。
 川越城の本丸御殿の入口には「本日は休館日です」という看板があった。
 つまり、そういうことだ。
           *
 本丸御殿の横に小江戸巡回バスのバス停があった。次のバスは十六時四十五分。
 バスが来るまでのあいだ、川越城の隣の三芳野神社に寄る。この神社は「とうりゃんせ」の唄発祥の地らしい。もっとも「とうりゃんせ」は関所の唄ともいわれ、箱根発祥説もある。
 時間通りにイーグルバスという巡回バスが来た。乗客はほとんど外国人(中国、韓国)の観光客だった。運転手さんの案内付きで川越氷川神社、蔵造りの町並などを通り、あっという間に西武新宿線の本川越駅へ。
 川越から家に帰るには東武東上線のほうが早い。この日は西武新宿線で帰りたい気分だった。よし、奮発して特急だ。
 十七時三十分発の特急レッドアロー号の新宿線(特急小江戸号)の切符を買う。本川越駅から高田馬場駅まで千円(乗車券込み)。
 ローソン本川越西口店で赤飯のおこわとビールを購入し、小江戸号に乗る。まさかの貸切り。ひとりレッドアロー。
 所沢駅でひとり乗ってきたのでふたりレッドアローになったが快適だった。
 車内で今回の旅をふりかえる。
 赤塚6丁目あたりをぐるぐる歩いていたときがいちばん楽しかった。わたしは目的地に向かってまっすぐ歩くことがそんなに好きではないことがよくわかった。これからは先に進むことばかり考えず、もっと寄り道しようとおもう。
 何も考えず、ただ歩いているだけの時間が今の自分には必要なのかもしれない。街道を歩くと、頭の中のガラクタが片づいて、すっきりした気分になる。身軽になったかんじがする。あくまでも自分比だが、街道歩きをはじめてから、体調もよくなった。
 十八時十四分、高田馬場駅に到着。JR総武線直通の東京メトロ東西線に乗り換え、高円寺に帰る。