第十一回 大磯-亀山-関-水口

  • 橋本治という立ち止まり方 on the street where you live
  • 『橋本治という立ち止まり方 on the street where you live』
    橋本 治
    朝日新聞出版
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  • 東海道中膝栗毛 上 (岩波文庫 黄 227-1)
  • 『東海道中膝栗毛 上 (岩波文庫 黄 227-1)』
    十返舎 一九
    岩波書店
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  • 『野武士、西へ 二年間の散歩 (集英社文庫)』
    久住 昌之
    集英社
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  • 『完全 東海道五十三次ガイド (講談社文庫)』
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  • 『新版・完全 「東海道五十三次」 ガイド (講談社+α文庫)』
    東海道ネットワークの会
    講談社
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 三月から四月――青春18きっぷの季節到来。18きっぷをつかうと電車の移動時間が長く、歩く時間があまりとれない。東京から三重県の鈴鹿市までJRの在来線だと八時間ちょっと。街道歩きは日没まで――と決めているので、歩ける場所は限られている。途中、どの宿場町に寄るか。
 宿場町を点とすると、街道は点と点をつなぐ線である。いろいろな街道を歩いて、線が増えると、自分の中の地理感覚が変わってくる......ような気がする。
 東海道で行ったことのない宿場町はまだまだ残っている。関所のある新居宿や本陣の資料館が有名な二川宿にも行ってみたいのだが、まずは大磯宿を歩くことにした。
 三月九日、午前七時に高円寺を出て、JR東海道線の大磯駅に午前八時半着――。
 大磯町観光案内所の営業がはじまる午前九時まで、高麗(こま)山の方面を散策する。
 線路沿いに歩き、神明架道橋(線路下のトンネル)をくぐる。大磯八景碑、化粧坂の夜雨に着いたのが午前八時五十分。化粧坂(仮粧坂/けわいざか)松並木、広重の大磯宿の絵などを見る。
 化粧坂の一里塚あたりは、中原街道(往還)の終点(平塚の中原御殿が街道名の由来。中原御殿が終点としている資料も多い)で武蔵と相模を結ぶ「古代東海道」だったという説もある。
 中原街道は「御酢街道」とも呼ばれていた。
 化粧坂をのぼり、高麗(こま)山のふもとに高麗ホルトノキがある。樹齢三百年以上。
 川越街道を歩いたときも高麗家住宅など、「高麗」という文字をたくさん見かけた。もともと大磯あたりから関東平野に渡来人の居留地が広がったらしい(否定派もいる)。
 近くの案内板には「鎌倉道」の名もあったが、謎多き鎌倉街道の元になったとおもわれる道は渡来人が切り開いたとも考えられる。
 大磯宿の隣の平塚宿からは甲州街道の八王子宿に向かう八王子道もあった。地図で見ると大磯からまっすぐ北に行くと八王子である。大磯と八王子の関係も気になる。
 そういう意味でも大磯は東海道のみならず、複数の線につながる重要な「点」だ。
 このまま高麗山を登ると、郷里の三重に辿り着くのが夜になりそうなので大磯駅に大急ぎで戻る。
 午前九時半、大磯町立図書館。二階に吉田茂の吉田文庫、大岡昇平の大岡文庫がある。この図書館のことは、事前に担当のTさんに教えてもらっていた。建物に趣があって落ち着く。
 明治以降、大磯は伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明らの首相が邸宅や別荘を構えていた町だ(「明治政界の奥座敷」という異名もある)。
 郷土資料コーナーで街道関係の本をぱらぱら読み、図書館を出て大磯駅前の観光案内所で「大磯観光ガイドマップ 歴史と味の散歩路」をもらう。
「二宮駅まで歩きたいのですが」というと「六、七キロありますよ」といわれる。余裕だ。
 地福寺の島崎藤村の墓に寄る。梅の木がきれいだった。藤村は中山道の馬籠宿で生まれ、東海道の大磯宿で亡くなった(旧島崎藤村邸も大磯にある)。
 旅行前、橋本治著『橋本治という立ち止まり方』(朝日新聞出版)を読んでいたら、数回にわたって、島崎藤村の『夜明け前』について書いていた。

《電話もない鉄道もない、徒歩で街道を行くのが第一の時代に、中仙道の馬籠宿にどうやって「尊王攘夷」その他諸々の幕末情報が伝えられたのか》

『夜明け前』の主人公の青山半蔵(藤村の父がモデル)は、馬籠宿の本陣と問屋を継いだ。
 半蔵は国学者の平田篤胤の「死後の弟子」で武士の世の中に不満を持っていた。
 街道を歩いていると、「(宿場町は)鉄道の普及によって、しだいに廃れていった」と説明した案内板をよく見かける。でも(一部の)宿場町が寂れた理由はそれだけではない。参勤交代など、幕府の「強制」があって成り立っていたシステムが崩れたことも大きかった。多くの人々が参勤交代やら関所やら勝手に川を渡ってはいけないみたいなルールの廃止を願っていたわけだ。
 幕府の非効率かつ非合理な制度によって維持されていた宿場も多い。時代の変わり目には、そうした矛盾が一気に表出する。いっぽう鉄道も電話もない「徒歩の時代」だったからこそ、宿場町は情報の集積地になっていた。東海道や中山道の宿場町から作家や出版人が数多く輩出したのも偶然ではない。
 話はそれたが、大磯町の地福寺を出て、大磯宿尾上本陣跡のところで東海道(国道1号線)に合流する。
 午前十時、湘南発祥之地。すぐ近くに鴫立庵がある。「大磯観光ガイドマップ」によると「京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場」といわれているそうだ。
 東海道の松並木を歩いていると進行方向に富士山が見える。真っ正面に富士山が見えるようにカーブしている。素晴らしい眺めだ。
 松並木が終わり、車の通行量の多い国道をしばらく歩く。二宮駅行きのバスが来る。バスに乗る予定はなかったが、つい乗ってしまう。衝動乗り。バスは東海道ではなく、あみだくじ式に住宅街のほうに入っていく。不安だ。東海道からどんどん遠ざかり、新幹線の線路が見えるところまで行ってしまう。
 そのまま乗っていれば二宮駅に着くわけだが、知らない町を歩いてみたくなり、富士見が丘3丁目のバス停で降りた。
 午前十時三十五分――。
 バス停近くの酒屋さんで缶コーヒーを買い、コピーした地図を見せ、富士見が丘田代公園の場所を教えてもらう。
「すぐ裏の山がそうですよ」
 教えてもらった方向に歩いて、土の階段をのぼると雪で真っ白の富士山がきれいに見えた。「富士見が丘」というならこうでなきゃ。この公園は富士見が丘富士見公園ともつながっている。
 バスに乗ったにもかかわらず、遠回りすることになってしまったのだが、来てよかった。
 それにしても大磯駅~二宮駅間は坂道多い。
 公園を出て富士見が丘児童館のところにいたおじいさんに秋葉神社までの道を聞く。富士見が丘の人はみんな丁寧に道順を教えてくれる。
 二宮町の秋葉神社は小さな神社だが、鳥居の先から相模湾が見渡せる。絶景だ。JR東海道線の電車が走る音がかすかに聞こえる。
 神社を出ると急坂が待っていた。坂はカーブしている。スキーのジャンプ台くらいの角度があるのではないか。転んだら止まらないくらい急な坂だ。
 坂を下ったところに、徳富蘇峰記念館がある。午前十一時二十分。「日本のスポーツ界を彩った先人」展(二〇一九年十二月二十五日まで)が開催中だった。
 蘇峰は民友社を経て国民新聞の社長になる。はじめて作った名刺やパスポートも展示されていた。趣味は読書と書籍蒐集で、江戸の和綴じ本や洋書なども並んでいる。若いころの写真を見ると、意志の強そうな顔だ。
 一八九六年、三十四歳のときに欧米漫遊し、ロシアでトルストイに会っている。
 帰国後、「国権主義」に傾斜し、「変節漢」と誹謗された。一九〇五年、日露戦争後、講和条約締結を支持し、国民新聞社は焼き打ちにあう。
 蘇峰は『近世日本国民史』(時事通信社)という全百巻の史書を記し、一九五七年十一月、九十五歳で亡くなった。全著作は三百冊以上ある。
 十二時十八分、記念館を出る。
 葛(くず)川にかかる内輪橋を渡り、はな通りを歩いて、ようやく二宮駅に到着する。
 十二時四十三分の電車で小田原駅へ。
 小田原から浜松くらいまで新幹線に乗れば、あとひとつかふたつ宿場町を歩けるのだが、金コマ中年は青春18きっぷでひたすら電車旅を続けるしかない。
 小田原駅の改札を出たところにあるニューデイズで鮭といくらのおにぎりとほうじ茶を買う。
 十三時十二分の熱海行の電車に乗る。
 熱海駅には十三時三十七分着。次の電車まですこし時間があったので駅の外に出る。
 十三時五十五分のJR東海道本線の島田行に乗る。
 各駅停車の旅は車窓から富士山も長く見ることができる。富士川駅から新蒲原駅のあいだで「左富士」も見た。JR東海道本線は、東京を出て西に向かう電車の左側の窓から富士山が見えるポイントがいくつかある。
 在来線は新幹線よりも海の近くを走るのもいい。
 そんなこんなで、静岡駅には十五時九分。このまま島田駅まで乗らず、十五時二十一分の静岡駅始発の浜松行に乗り換える。
『東海道中膝栗毛』の十返舎一九は駿河国の府中(静岡市葵区)の出身だ。『真夜中の弥次さん喜多さん』『弥次喜多 in DEEP』のしりあがり寿さんも静岡市葵区の出身というのは偶然ではないだろう。
 浜松駅には十六時三十二分着。名古屋駅行きの新快速は十七時二分。駅の外に出て、ちょっとぶらつく。駅のキオスクみたいなところでサンドおむすびの卵焼きと明太子を買う。
 十七時三十分、二川駅が過ぎてゆく。いつになったら二川宿に行けるのだろう。未読の本がどんどんたまっているかんじだ。
 十八時二十八分、名古屋駅に到着。地下街のエスカで東海地方民のソウルフードの寿がきやのラーメンを食べようと考えていたのだが、十八時三十五分の快速みえに乗る。
 伊勢鉄道(河原田駅~津駅間は18きっぷはつかえない)の鈴鹿駅は十九時十六分着。あいかわらず、駅のまわりが暗い。今回はLEDのヘッドライトを忘れずに持ってきた。
 目指すは近鉄鈴鹿市駅近くのキング観光サウザンド鈴鹿店だ。キング観光はパチンコ店なのだが、中に寿がきやがある。白ラーメンを注文する。駅近くのファミリーマート近鉄鈴鹿市駅店で酒とつまみを買い、郷里の家には二十時すぎに着いた。

 三月十日、朝、テレビの天気予報を見ると、三重も滋賀も雨。しかも夕方から強雨らしい。
 港屋珈琲鈴鹿店でモーニング。郷里に帰るとほぼこの店で朝食をとる。テーブルも広く、仕事をすることもある。午前九時、近鉄平田町駅から三重交通のバスで亀山駅に向かう。
 途中、雨がぽつぽつ降ってきた。
 九時四十分、亀山駅に着き、関駅に方面の電車まで三十分くらいあったので、でころぼ坂を歩く。亀山宿も東海道の宿場町だ。亀山城もある。日曜日にもかかわらず、亀山駅の観光案内所は臨時休業だった。
 三重県側から鈴鹿峠をこえた先には、東海道の土山宿と水口宿がある(どちらも滋賀県)。この日の宿は水口宿に予約している。
 関宿から水口宿まで歩くのは、わたしの脚力ではむずかしい。仮に辿り着けたとしても夜になるだろう。しかもこの日は雨。雨の中、峠を歩きたくない。
 街道歩きのさい、雨天決行するかどうか。わたしは雨の日は電車やバスで移動し、「駅近宿場町」を楽しもうという考えである。過去に何度か雨の街道を歩いたが、いい思い出がまったくない。
 傘をさしながらメモをとったり、地図を見たりするのも面倒だし、何より車が怖い(しかも水しぶきを浴びまくる)。
 関宿は駅近だし、雨の日に歩くにはもってこいの宿場町といえよう。
 亀山駅の改札をスイカで通る。しかし電車に乗ったあと、ひとつ隣の駅の関駅はスイカがつかえないことが判明する(わたし以外にも何人か戸惑っている乗客がいた)。車内で料金を払い、証明書みたいなものをもらう。
 関駅(無人駅)を出て、東の追分のある一の鳥居に行く。伊勢別街道との分岐点。関宿は一九八〇年から町並保存計画をはじめ、景観保存に力を入れてきた。「日本の道100選」にも選ばれている。
 二〇一六年五月に父が亡くなって、いろいろ事後処理が終わったあと、母の弟のトシおじさんが「どこか行きたいとこあるか」といってくれた。わたしは「関宿に行きたい」と答えた。
 そのころ、安西水丸著『ちいさな城下町』(文春文庫)と久住昌之著『野武士、西へ 二年間の散歩』(集英社文庫)を読んでいた。どちらも関の話が出てくる。久住さんは関宿を絶讃していた。「そんなに?」とおもったが、わたしが子どものころの関と今の関はちがう町だ。
 かつては鈴鹿郡関町だったが、二〇〇五年に亀山市に合併されている。つい最近まで知らなかった。
 関宿は古代東海道の関所「鈴鹿関(すずかのせき)」があった町。鈴鹿関は美濃の不破、越前の愛発(あらち)とともに「古代三関(三国之関)」といわれていた。
 関宿に着き、東の追分から西の追分まで歩く。
 関まちなみ資料館、旅籠玉屋歴史資料館に寄る。雨が降っていたが、歩いている人がけっこういた。二十代くらいの若い人も見かけた。
 銀行も町屋風。ゴミ箱も木目調。町全体が旧街道の保存に尽力している。
 一九九六年刊行の東海道ネットワークの会著『完全 東海道五十三次ガイド』(講談社+α文庫)には、旅籠「玉屋」歴史資料館が「復元整備工事中」とある。同書は二〇〇五年に「決定版」もあり、比較して読むと一九九〇年代から二〇〇〇年代の東海道の変化が見えてくる。
 今の関宿は町家を改装した飲食店も増えた。
 でも車で移動することの多い地元の人は旧街道を知らないことが多い。鈴鹿に五十年以上暮らすわたしの母も関宿の観光地化に驚いていた。
 十一時四十分。前回寄らなかった道の駅に行く。「亀山ラーメン」ののぼりが気になったが、たぬき俵にぎり(三個)を買う。二百五十円。
 休憩施設でおにぎりを食べていたら「亀山市PR劇場」という映像が流れていた。
 志賀直哉の『暗夜行路』で主人公が伊勢に旅行し、その帰りに亀山に寄る話などを解説していた。志賀直哉の若くして亡くなった母は亀山の生まれ。『暗夜行路』も街道小説だったのか。読まなきゃ。「PR劇場」はそのあとヤマトタケルの話も......。
 道の駅には滋賀ナンバーの車がけっこう止まっていた。
 関駅から十二時二十一分の柘植駅行きの電車に乗る。JR関西本線の加太駅から柘植駅にかけては、いつも霧(濃霧)が発生している印象がある。山の風景が水墨画みたいだ。
 柘植駅のある三重県伊賀市は松尾芭蕉の生誕の地、横光利一も少年時代、この地ですごした。大きな池がたくさんある。柘植は旧大和街道、東海自然歩道も通っている。
 柘植駅でJR草津線に乗り換え、十三時十九分、貴生川駅(滋賀県甲賀市)に到着。関駅から貴生川駅まで五百円。わたしの足では、朝、関を出発しても日没までに水口宿に辿り着けるかどうかわからない。
 あらためて電車はすごいとおもう。
 東海道は、関宿のあと坂下宿(三重)、土山宿(滋賀)と二宿連続で電車のもより駅がない。関宿~水口宿間は、鈴鹿峠だけでなく、交通の便でも"難所"なのである。
 貴生川駅からは近江鉄道で水口駅に行くこともできるが、電車に乗らず、小雨が降るなか、杣(そま)川のほうに向かって歩く。
 十三時二十七分、柿田川橋。歩道が広く歩きやすいと感心していたら「バイコロジーモデル事業」という看板があった。この地域は自転車歩行者優先道路に力を入れている。
 北杣橋、ゆるやかにカーブしている。いい橋だ。橋の先は飯道山登山道だが、山を歩くつもりはないので引き返す。
 貴生川の信号をこえると、歩道なし(車の通行量も多い)。どうしたバイコロジー。遠回りになってもいいから、車の通行量の少なそうな道を歩く。
 踏切の先に神社が見える。佐土神社。こじんまりとした清涼感あふれる神社だった。梅の花が咲いていた。
 そのまま佐土神社の前の道を歩いていると雨が強くなる。寒い。再び、踏切。すると踏切の先に川田神社があった。
 川田神社の脇の道をひたすら東に向かって歩いていたら、甲賀市民スタジアムがあった。雨の中、野球の試合をしている。
 当初、考えていたルートではなかったが、どうにか内貴橋南詰に辿り着いた。野洲川を渡る。
 十四時三十三分、内貴橋を渡り終える。お腹が空いてきた。もうすこしで近江鉄道の水口城南駅だ。
 水口城資料館に行く。休館日は木・金曜。この日(日曜日)は水口宿に宿をとっているから、明日来ることもできたのか。焦って損した。資料館その他の休館日は事前に調べたほうがいい。
 水口城資料館の芳名帳を見ると、この日、「東京都港区 村上春樹」と達筆な字で書いてあった。たぶん本人ではないとおもう。
 そのあと甲賀市立歴史民俗資料館にも寄る。雨、そして風も強くなる。
 昨日、大磯を歩いていたときは、日中の気温が十五、六度くらいでダウンジャケットが邪魔だったが、水口宿では大助かりだ。急に寒くなった。歴史民俗資料館のほうは巖谷一六・小波記念室が併設。一六は書家、小波は「日本のアンデルセン」といわれ、「日本むかし話」を数多く残した。小波にとって水口は父祖の地。妻も水口の出身とのこと。
 水口宿付近は東海道だけでなく、杣街道(新海道)という道もあるようだ。杣街道は、滋賀県湖南市三雲(東海道の横田の渡しなどがある)から水口町(貴生川駅の近く)を通り、三重県伊賀市柘植町で大和街道に合流し、関宿に至る。杣街道とJR草津線はほぼ重なっている。
 十五時四十分。歴史民俗資料館を出る。雨が強くなる。からだが冷える。体感では気温五度くらい。線路と家のあいだの細い路地を歩く。途中、店が何軒かあったが、いずれも支度中。しばらく歩くと「待夢」という喫茶店があった。
 ピラフセットを注文する。店内のテレビでボートレースの番組が流れている。司会の女性タレントの名前がおもいだせず、もやもやする。
 十六時四十分、窓の外を見ると小雨。喫茶店に入って正解だ。からだも温まった。
 今夜の宿はホテル古城。十七時前に到着した。宿はトイレ・風呂なしの和室。大浴場もある。四千円台。
 目の前に水口岡山城跡がある。
 宿に着いたのはいいが、酒を買い忘れた。 
 せっかく日没との競争に勝利したのになんたることだ。どうやら宿の近くにコンビニはない。
 酒が買えそうなのは、スーパーハズイ水口店だろうか。宿から一キロ以上はある。でも行くしかない。LEDヘッドライトとオイルコンパスを持って、スーパーを目指す。ビールとサーモンの巻き寿司とおにぎりせんべい(銀しゃり)を購入する。
 スーパーへの行き帰り、知らずに旧東海道を歩いていた。そのことに気づいたのは翌日だった。

(......続く)