第十二回 醒ケ井-犬山-多治見-中津川

  • なごやの古道・街道を歩く (爽BOOKS)
  • 『なごやの古道・街道を歩く (爽BOOKS)』
    池田 誠一
    風媒社
    1,728円(税込)
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  • 日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)
  • 『日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)』
    志賀 重昂
    講談社
    1,080円(税込)
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  • ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験―北米アパラチア自然歩道を行く
  • 『ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験―北米アパラチア自然歩道を行く』
    ビル ブライソン
    中央公論新社
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  • 痕跡本の世界: 古本に残された不思議な何か (ちくま文庫)
  • 『痕跡本の世界: 古本に残された不思議な何か (ちくま文庫)』
    古沢 和宏
    筑摩書房
    842円(税込)
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  • どの駅で降りようかナ
  • 『どの駅で降りようかナ』
    国鉄なごや近郊散策同好会
    弘済出版社中部支社
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 四十代半ば、東京と郷里の三重を行き来するうちに街道に興味を持った。最初のころは「四、五年かけて東海道と中山道をふらふら歩けたら」とおもっていた。ところが、知れば知るほど、歩きたい町が増えていく。三重にいたころ、あまりなじみのなかった滋賀や岐阜の宿場町は想像以上に素晴らしい。この二県だけでも何年かかるかわからない。終わりが見えない。でも楽しい。
 三月十一日。朝、小雨。郷里の家で父の傘を持ってきた。紺色の傘だが、あちこち変色している。午前八時二十分に宿を出る。
 水口宿の東目付跡を目指す。すると、近くに秋葉神社があった。階段が急だ。雨の日は石の階段は怖い。苔ですべりそう。ゆっくりのぼり、くだりは一段ずつ足をそろえて降りる。街道を歩くようになってから日本のあちこちに火伏せの神を祀る秋葉神社があることを知った。
 東目付跡(江戸口跡)、本陣跡に寄る。「水口お散歩MAP」を見ると三本くらい同じ道幅の旧街道がある。高札場跡のあたりか。昨日、酒を買うため、スーパーに行ったときもこの道を歩いた。案内板には「三筋の町」と記されている。
 午前八時五十分、大池町のからくり時計前。午前九時、正午、午後三時、午後六時と一日四回動く。雨の中、からくり時計を見るために十分も待つのか。午前九時すこし前に、からくりの曳山が動き出した。
 午前九時十三分、水口石橋駅。貴生川方面の電車は五分後に来る。二駅で二百五十円。近江鉄道、運賃が高い。
 JR貴生川駅から青春18きっぷ。午前九時三十八分の草津行きの電車に乗る。
 草津駅で降りるかどうか迷ったが、雨はまだやまない(天気予報では午後から晴れるといっていた)。草津駅で「貴生川・柘植方面」という案内を見る。ひょっとしたら滋賀県民のほうが近鉄沿線の三重県民より柘植という地名になじみがあるのではないか。
 午前十一時、米原駅から醒ヶ井駅へ。以前、米原駅から大垣駅行きの電車に乗ったときは醒ヶ井駅を通り過ぎたが、今回は小回りのきく18きっぷのおかげで躊躇なく途中下車できた。
 電車の窓から見たときは、何の変哲もない国道沿いの町かとおもっていた。国道の一本先に別世界が広がっている。
 醒ケ井宿は広重の木曾街道六十九次の絵では「酔か井」と記されている。
 旧街道沿いに地蔵川橋、居醒橋など、小さな橋がたくさんある。旧問屋場(旧川口住宅)で雨やどり。ヴォーリズ設計の資料館は休館日だった。
 居醒の清水でヤマトタケルの名前を見る。大蛇の毒にやられたあと、醒ケ井の水に癒されたそうだ。
 午前十一時三十五分、みやび庵で卵うどん。冷たい霧雨でからだ(とくに足)が冷えていたのでストーブがありがたい。
 店内では「鶴瓶の家族に乾杯」の醒ケ井の回のビデオが流れている。ゲストは國村隼。國村隼の趣味はフライフィッシングだった(はず)だ。水のきれいな町ということで醒ケ井を選んだと語っていた。
 正午すぎ、みやび庵の近くの加茂神社に寄る。階段がきつい。醒ケ井はハリヨという魚とバイカモという沈水植物が名物であることを鶴瓶の番組で知った。
 平日昼間の雨の日ということもあり、歩いている人がほとんどいない。車の通行量が少なくてよかった。町をひとりじめしている感を味わう。
 醒ケ井宿はこじんまりとして町全体が庭園みたいだ。大仰さが一切ない。「わび・さび・ひなび」の三つの「び」が揃っている。
 完全に観光地化している宿場町には「ひなび」感が足りない。醒ケ井は中山道では木曽福島と同じくらい歩いていて気持がよかった。
 この日、日本各地で大荒れの天気だった。醒ケ井は風が強く、ずっと冷水のミストシャワーを浴びているかんじだった。貼るカイロを装備していたにもかかわらず、体温がどんどん奪われる。体感では五、六度か。うどんを食べてよかった。
 駅に戻る。醒井水の宿駅は改修工事中。二〇一九年四月一日からオープンする。
 十二時三十五分。醒ケ井駅から大垣駅へ。
 大垣駅から美濃赤坂駅に行くかどうか迷った。美濃赤坂は赤坂宿という宿場町で河川交通で栄えていた。ただし大垣から美濃赤坂までは電車の本数が少なく行きづらい。今回は岐阜駅まで一気に進むことにした。
 岐阜駅周辺は中山道の加納宿という城下町兼宿場町である。
 駅に着いて、ようやく空が晴れてきた。太陽が眩しい。駅の観光案内所でマップをもらう。岐阜にはたいてい名古屋から名鉄で行くのでJRの駅を降りたのははじめてだ。
 といっても、加納宿界隈は歩かず、岐阜駅からJR高山本線で中山道の鵜沼宿がある鵜沼駅に向かう。十四時六分着。
 鵜沼駅に降りた途端気が変わって、愛知県の犬山の方向に歩くことにした。川沿いの道が歩きたくなったのだ。
 鵜沼駅は名鉄の新鵜沼駅と鵜沼空中歩道でつながっている。
 十四時二十五分、犬山橋を渡り、愛知県の土(アスファルトだが)を踏む。県境を歩いて越えると嬉しくなる。橋を渡ったところに内田の渡し常夜灯がある。
 犬山は犬山城の城下町だが、上(うわ)街道~稲置街道の街道筋の町でもある。
 上街道は名古屋と中山道を結ぶ脇往還で小牧街道、善師野街道、木曽街道などの呼び名があることを沢井鈴一著『名古屋の街道をゆく』(堀川文化を伝える会、二〇一〇年)で知った。
 池田誠一著『なごやの古道・街道を歩く』(風媒社、二〇〇七年)は「木曽街道」という項になっているが、上街道は本街道という呼び名も記されている。
 上街道の楽田の追分から犬山に通じる道は稲置街道、犬山街道、さらに殿様街道、御成道、成瀬街道とも呼ばれていた。街道の名前はほんとうにややこしい。稲置は犬山の昔の地名だそうだ。
 上街道は小牧、善師野、土田の宿場町が設けられていた。愛知県の小牧市も行ってみたい。
 犬山城を眺めながら木曽川沿いを歩く。木曽川は雄大だ。階段をおり、川のすぐそばの水に触れそうなところの道を歩く。ちょっと怖い。鵜沼駅から岐阜県側の川沿いのライン大橋のあたりに木曽川遊歩道(木曽川河畔遊歩道)という道もある。
 ライン大橋の「ライン」は「日本ライン」からきてる。日本ラインは『日本風景論』の志賀重昂がヨーロッパのライン川の風景に似ていることから命名した。ライン川と似てるかなあ。ヨーロッパは行ったことがないけど。
 十四時三十八分、川すれすれの道が終了する。犬山城が近い。風強し。彩雲橋を通る。橋マニアのあいだでは二連アーチの橋として知られている。
 橋を渡ると「東海自然歩道」の看板があった。
 すこし前に、高円寺の西部古書会館で小檜山俊著『東海自然歩道』(養神書院、一九七〇年)、上善峰男著『東海自然歩道をゆく』(朝日ソノラマ、一九七五年)の二冊を入手していた。東海自然歩道は八王子市高尾山明治の森から大阪の箕面公園明治の森まで千キロ以上にわたる道である。
『東海自然歩道』の推薦文で国立公園協会理事長の千家哲麿さんは「すでにアメリカでは『国立歩道体系法』を成立させ、壮大なアパラチアン・トレールという長距離歩道をつくっていますが、同様な探勝歩道づくりはイギリス、カナダ、西ドイツなどでも行われています。文明が高度化すればするほど、人間性の帰巣本能はそれを求めるのです」と述べている。
 わたしはコラムニストのビル・ブライソンのファンで『ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験 北米アパラチア自然歩道を行く』(中央公論新社)で「自然歩道」という言葉を知った。二〇一六年に『ロング・トレイル!』という映画にもなっている(主演はロバート・レッドフォード)。
 原題は『A WALK in the WOODS』。「究極のアウトドア体験」という題ではビル・ブライソンの妙味というか、ぐだぐだなかんじが伝わりにくい。アメリカ版の弥次喜多道中みたいな内容なのだ。
 ビル・ブライソンがアパラチア自然歩道を歩いたのは四十代半ばだった。今、『ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験』のアマゾンの古書価は一万円ちかくになっている(二〇一九年四月末現在)。復刊してほしいが、そのさいはタイトルを変えたほうがいいだろう。
 話はそれてしまったが、期せずして木曽川沿いを通ったことで東海自然歩道の一部を歩くことができた。
 犬山は郷瀬川沿いの歩道もいい。針綱神社、三光稲荷神社を通り、参道へ。平日の午後なのに人がたくさんいる。着物を着た若い人も目立つ。
 昔の建築物がけっこう残っている。高札場、問屋場、火の見櫓などを見て、参道を抜け、本町の信号を西に曲ると、古書五っ葉文庫キマワリ荘がある。
 五っ葉文庫の店主の古沢和宏さんは『痕跡本の世界 古本に残された不思議な何か』(ちくま文庫)などの著作もある。頭の回転が早く、とにかくよく喋る。才人である。予告なしに店を訪ねたにもかかわらず、歓迎してくれた。
「途中、醒ケ井に寄った」というと、古沢さんの母は米原のほうの出身らしく、街道事情にも詳しかった。鵜沼宿のこともいろいろ教えてくれた。
 犬山に観光客が急増したのはこの四、五年のことらしい。ただし、観光客の増加と古本の売り上げはまったく比例していないとも......。
 国鉄なごや近郊散策同好会編『なにかがある。だから... どの駅で降りようかナ』(弘済出版社中部支社、一九七八年)、『三重県 ふるさとの散歩道』(国土地理協会、一九八五年)を買う。
 犬山駅の東口に出て郵便局で資料や本を送る。荷物が軽くなったので、すこしだけ新郷瀬川沿いの与坂本通りを歩く。
 犬山駅から名鉄広見線で新可児(かに)駅へ。十七時前。家に帰ってから名鉄小牧線や名鉄広見線が上街道と重なっていることを知る。
 新可児駅の東口に出て蛍橋を渡り、可児川沿いを南へ。夕陽がきれいだ。可児駅前大橋をわたり、JR大多線の可児駅(名鉄の新可児駅のすぐそば)に行く。
 十七時十六分の電車で多治見駅へ。観光案内所で「多治見まちなかおもしろぉマップ」をもらい、「下街道双六」を購入する。
 わたしが「"しも"かいど......」といいかけると、案内所の女性に「"した"かいどうです」と素早く訂正された。不勉強ですまない。
 この日の宿は多治見駅前のビジネスホテル。十八時にチェックイン。荷物を置いて土岐川のほうを歩く。
 多治見に宿をとった理由のひとつは土岐川を見たかったからだ。でも日が沈んで薄暗い。歩くのは明日にしよう。駅前のスーパーで半額の焼肉弁当とビールを買う。
 下街道は名古屋から中山道の槇ヶ根追分(恵那市)を結ぶ脇往還だが、人の行き来が活発で宿場もにぎわっていた。
 沢井鈴一著『名古屋の街道をゆく』によると、「下街道は善光寺に参拝する人が多く通った所から善光寺街道とも呼ばれている」とある。
 江戸から東海道を経て、お伊勢参りをした人が帰りは中山道を通って善光寺に寄ることが多かったと知ったとき、東海道から中山道にはどの道を歩いたのか気になっていた。
 それでいろいろ資料をあたっているうちに下街道のことを知った。下街道はヤマトタケルが東征の帰りに通ったという伝説が残っている。
 三月十二日、朝六時二十分、宿を出る。土岐川のところに来ると「安心歩行エリア」という看板があった。昭和橋の上から朝日を見る。多治見広小路商店街を歩く。昭和感溢れるレトロな商店街だ。
 午前六時三十五分、歩いていたら新羅神社という神社があった。川越街道を歩いて以来、高麗や新羅という地名が気になるようになった。
 このあたりは昔から美濃焼の町として知られているが、陶器の産地と渡来人の関わりというのも調べてみたら面白そうな気がする。
 あと多治見温泉という古い建物があった。
 再び、多治見広小路を歩くと、銀座センターという細い路地にはスナックが数軒並んでいた。
 朝早すぎて店が開いていない。下街道本町という行灯(?)がある。その看板に「下街道サミット」と書かれている。どんなサミットが行われているのだろう。
 午前六時五十分、多治見本町オリベストリートを歩く。岐阜出身の戦国武将で茶人の古田織部にちなんだ道のようだ。
 多治見警察署本町交番も木目調でオシャレだった。浄念寺を通り、午前七時すぎに記念橋へ。
 ここから川沿いを通って多治見駅に引き返す。階段を下り、川べりをひたすら歩く。
 土岐川、素晴らしい。地元の人にとっては当たり前の光景かもしれないが、車の心配なしにゆったりと歩ける川沿いの道は貴重なのだ。川沿いに「土岐川の魚たち」という案内もあった。
 アカザ(アカバチ、ネバチとも呼ばれる)などの絶滅危惧種も棲息していることを知った。
 川沿いの道は歩いていて快適だったが、公衆トイレがなくて困った。唯一の改善してほしい点だ。多治見広小路とオリベストリートもいい道だった。多治見は個人営業の店が多い気がする。
 この日は雲ひとつない快晴。
 午前七時半、昭和橋に到着する。ここから多治見駅に向かう。
 本町田代地下道を通り、昨晩、焼肉弁当を買ったスーパーの地下の喫茶店(「SINCE 1910」と記されている)に寄ろうとしたが、営業時間前だった。残念。多治見、また来よう。
 午前八時四分の電車で中津川駅へ。
 JR中央本線の新型車両に乗る。座席が快適で特急みたいだった。
 午前八時の電車なのにのんびり座っていられる。都内のJR中央線のラッシュとは大違いである。
 恵那駅を過ぎ、トンネルを抜けるとさっきまで快晴だったのに急に曇り空に変わる。
 中津川駅はこの一年で五回ほど降りているのだが、乗り換えのあいだにすこし駅のまわりを歩いたくらいで、宿場町をまだ歩いていない。
 中津川市は島崎藤村の生家のある馬籠宿が観光地として有名である。もともと馬籠は長野県木曽郡山口村に属していたが、二〇〇五年に越県合併で岐阜県中津川市に編入された。この合併によって島崎藤村は岐阜の郷土作家になり、いろいろ混乱が生じている。
 児玉幸多著『中山道を歩く』(中公文庫)によると、馬籠宿は「古くは美濃国遠山庄馬籠村」といわれていたらしい。

《馬籠村は明治七年に湯舟沢村と合併して神坂村となったが、昭和三十二年に神坂村は岐阜県の中津川市に合併しようという動きが起き、大論争の結果、全国でも珍しい総理大臣裁定で、神坂村のうち、馬籠・峠・荒町の三地区、すなわち元の馬籠村の分が隣村の山口村に編入され、旧湯舟村分は中津川市になった》

 このとき馬籠が岐阜に合併されると「『信州の藤村』ではなくなる」という騒ぎあった。逆にいうと、島崎藤村がいなかったら、もっと早く馬籠宿は岐阜県になっていた可能性もあったのかもしれない。
 馬籠の話が長くなってしまったが、この日、わたしが歩いたのは馬籠宿ではなく、中津川宿である。
 中津川も快晴だった。観光案内所で「千畝ロード&中津川宿歴史散策マップ」「中津川宿探索(水辺空間ウォーキングマップ)」をもらう。
 中津川駅前通りから東太田町通り商店街を歩いて、中山道の茶屋坂の高札場と常夜燈があるところまで行く。「中津川宿探索」を見ると、茶屋坂から飛騨街道にも分岐している。飛騨街道もいくつか道筋があり、中津川の飛騨街道は南北街道とも呼ばれていた。
 茶屋坂のところで折り返し、中山道を南西方向に歩いて、中山道歴史資料館に向かう。「千畝ロード&中津川宿歴史散策マップ」には駅前通りと中山道が交差するあたりに「古い中山道」と記された道がある。細い道。歩いているうちに方向感覚がおかしくなる。
 再び中山道に戻るとチキンハウスというカラオケ店の前に「夜明け前」の石碑があった。午前九時二十八分、四ツ目川を渡ると中山道歴史資料館と脇本陣が並ぶ。
 そのまま大井宿方面に歩き、中津川遊歩道公園(ミニ中山道)を経て、中津川橋を渡る。
 けっこう宿場町の風情が残っている。案内板も多く、街道初心者にも親切な町である。
 中津川、水が透明。橋を引き返し、午前十時ちょうどに中山道歴史資料館に入る。「中山道17宿」のコピーを入手(十七宿分ある)。中津川は「奈良、平安時代の昔から東山道の要衝であり、江戸時代に整備された中山道の中でも特に賑わった宿場のひとつ」とある。
 資料館には四十分ほど滞在。そのあと往来庭で広重、英泉の中山道の絵を眺める。
 午前十一時前。この日は宿をとっていないので青春18きっぷで東京まで帰る予定だった。JR中央本線は中津川駅~塩尻駅間が電車の本数が少ない。午前中にもかかわらず、疲れている。体力の残量はほぼゼロ。無理をせず、午前十一時四十九分のワイドビューしなのの塩尻駅までの切符(自由席)を買うことにした。二千八百四十円。川が見たかったので進行方向の左側の席に座る。
 いくつかのトンネルを抜け、奈良井宿のあたりに来ると、雪が積もっていた。奈良井から塩尻にかけては山がほんとうにきれいだ。木の葉の色がすこしずつちがい、雪の白色に映える。
 十二時五十二分、塩尻駅着。甲府駅方面の電車に乗り換え。JR中央本線の電車はドアをボタンを押して開閉する。車内に入ったら、すぐ「しめる」のボタンを押さないと他の乗客に睨まれる。最初のころは戸惑ったが、もう慣れた。
 甲州街道もまだ行ったことのない宿場町がたくさんある。電車の窓から「次、どこに行こうか」と考える。
 甲府もなじみの町になってきた。
 県庁前の大通りの西にある路地を歩き、喫茶店で休憩する。席に座り、ダウンジャケットを脱いだら、からだからおっさんの臭いがした。