第十三回 二川-大垣-京都-青山町
東海道は五十三次、中山道は六十七次――合わせて百二十。一ヶ月一宿で十年、二宿で五年、四宿で三年。楽ではないが、絶妙な数だ。
当初、東京と郷里の三重の行き来しながら、これまで行ったことのない東海道や中山道の町で途中下車し、街道を散策しようと考えていた。ところが、宿場町を訪れているうちに、歩くこと自体が楽しくなってきた。歩くことが楽しくなると、他の街道にも興味が出てきた。
四、五年計画くらいの予定だった街道歩きは完全にゴールを見失ってしまった。でもいいのだ。行けるところまで行くのだ。
京都に行こうとおもい、新宿駅西口の金券ショップで豊橋駅までの新幹線の切符(自由席)を買う。
新宿駅の西口と東口をつなぐ小さなトンネルには青梅街道の宿場町の絵が描かれている。かつて新宿は内藤新宿と呼ばれ、甲州街道と青梅街道の追分があった。
京都に行くのに豊橋駅までの切符を買ったのは、東海道の二川宿を歩きたかったからだ。東京からだと二川駅は豊橋駅のひとつ手前にある。
三月末、まだ青春18きっぷがつかえる。前回、三重に帰省したときに五回分のうち三回分利用した。まだ二回分残っている。
18きっぷの街道旅は歩く時間の確保がむずかしい。あちこち寄り道していると、早朝、東京を出発したとしても豊橋あたりで日没との競争になってしまう。
いよいよ出発。三月三十日、午前八時三十三分の新幹線に乗る。
豊橋駅には午前九時五十六分着。豊橋は東海道の吉田宿。吉田宿本陣跡は豊鉄市内線(路面電車)の札木駅の近くにある。豊橋駅からも歩いていける。
しかし今日は吉田宿ではなく、二川宿を目指す。
長年、東京と三重を行き来しているのだけど、浜松から豊橋のあいだは途中下車したことがない。街道歩きをはじめたころから、二川宿に行ってみたかった。
JR中央線の高円寺の飲み屋で「最近、東海道や中山道を歩いていて......」という話をしたら、デザイナーの原瀬浩紀さん(愛知県豊川市出身)が「二川宿、行ってくださいよ。いいところですよ」と教えてくれた。
東海道でいうと、東から白須賀宿、二川宿、吉田宿と続く。白須賀は遠州(静岡)、二川は三河(愛知)である。今井金吾著『今昔東海道独案内 西篇』(ちくま学芸文庫)によると、白須賀宿は一六〇〇年に設置された当時、「浜名湖に半島状に出ていた突端の港町」だったが、「その後の地震や津波で、二度目は柏原の辺りに、そして最後に現在地に移転したものである」そうだ。
二川駅の北口から旧東海道を歩く。
旧街道をすこし北にある大岩神明宮へ。近くには立岩街道(県道3号)という街道もある。
そこから十分ちょっと歩くと、豊橋市二川宿本陣資料館に到着。この本陣は一九八八年から改修、復元工事が行われ、東隣には江戸時代の旅籠「清明屋」も併設している。
森川昭著『東海道五十三次ハンドブック』(三省堂)には、一九九二年の本陣資料館の公開について「我々海道マニアを喜ばせた」と記されている。
さらに「我々は初めて風呂場や雪隠(便所)まで本格的な本陣を手軽に見学できるようになった」とも。
わたしは平成の終わりに街道を歩くようになった。
平成は「失われた何とか」という言葉とともに語られることが多いが、街道、宿場町に関しては、復元と再生の時代でもあった。まだまだ不十分ではあるが、歩道の整備も進んだ。「歩いて暮らせる町」をコンセプトに掲げる自治体も増えた。
また街道沿いの川も昭和の高度成長期からバブルにかけてのころと比べると、ずいぶんきれいになった。
二川宿本陣資料館は東海道以外の街道の展示もたくさんある。図録も多数販売(五千円分くらい買ってしまう)。カバンが重くなる。
『享保十四年、象、江戸へゆく』(岩田書院)の著者の和田実さんはこの資料館の学芸員である。清国の商人が八代将軍徳川吉宗への献上品として贈った象は、長崎から江戸まで二ヶ月以上かけて歩いて届けられた。最後は中野村(現在の東京都中野区本町)に払い下げに......。
わたしはたまたま青梅街道沿いの中野坂上界隈を散歩中に「象小屋の跡」を見つけた。まだ「街道病」を発症する前の話だ。
資料館で購入した『動物の旅 ゾウとラクダ』によると、「ゾウは水を嫌うという理由から、桑名・宮間の七里の渡しや、新居・舞坂間の今切の渡しを避けて、美濃路や本坂通りを通行した」とある。
館内では日本中の本陣が残る宿場町の地図もあった。『大名の宿 本陣展』というパンフレットも購入する。
東海道では本陣が残っているのは二川宿と草津宿の二宿だけである。そういう意味でも二川宿は貴重な宿場町なのだ。
資料館には五十分ほど滞在した。二川駅に戻り、午前十一時三十一分の電車で豊橋駅へ。
豊橋駅から午前十一時五十分の新快速の大垣行に乗り、十三時十七分に到着予定......のはずが、木曽川駅と岐阜駅のあいだで踏切の遮断機が折れる事故が発生し、木曽川駅に停車する。電車のスピードも遅くなる。だいたい二十分の遅れで大垣駅に着いた。
毎回、何らかの電車のトラブルに遭遇している気がする。
今回は寄らなかったけど、木曽川駅のあたりは岐阜街道(御鮨街道)が通っていて、旧街道の雰囲気が残っているらしい。この道もいつか歩きたい。
二十代のころ、東京から大垣行きの夜行列車によく乗った。青春18きっぷの季節に京都や大阪の古本屋をまわるのが目的だった。
当時は古本のことしか頭になく、大垣では駅近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ記憶くらいしかない。大垣城にも行かなかった。
西美濃観光案内所で「城下町大垣観光マップ」をもらう。
この日は小雨。腰に貼るカイロを装着したが、それでも寒い。
水門川に沿って大垣市奥の細道むすびの地記念館を目指す。
三月下旬から四月のはじめにかけては「水の都おおがき舟下り」というイベントも開催している(ゴールデンウィーク中はたらい舟に乗れるイベントもある)。駅を出たところから「ミニ奥の細道」を通った。道沿いに松尾芭蕉の句碑のある遊歩道。六差路を真南に曲る。橋がたくさんある。桜が咲いている。近所にこんな遊歩道があったら、毎日歩きたい。
歩きながら、ふと岐阜県内の新幹線の駅のことを考えてしまう。
岐阜羽島駅はいわゆる「政治駅」ではなかったらしいのだが、岐阜駅からだと名古屋駅に出たほうが楽だし、大垣駅から岐阜羽島駅に行こうとすれば、電車だとJRの岐阜駅まで行って名鉄に乗り換えないと行けない(いちおう直通のバスはある)。
当然、「他所者が勝手なこといってんじゃねえ」という意見もあるだろう。
岐阜羽島駅の一日の平均乗車人数は三千人以下で東海道新幹線の駅で最も乗車人数が少ない。新幹線の線路は大垣駅の二キロちょっと先の養老鉄道の西大垣駅と美濃青柳駅のあいだを通っている。
せめて養老鉄道と交差するあたりに新幹線の駅を作れば、今よりはるかに利用者は増えるにちがいない。
そんなことを考えつつ、奥の細道むすびの地記念館へ。立派な建物だ。オープンは二〇一二年四月。入口の手前で強雨になる。
岐阜県は「東濃・西濃」とで文化圏がわかれる。岐阜市や大垣市は西濃だ。カンガルー便の西濃運輸は大垣市に本社がある。
『中山道 二 江戸時代図誌』(筑摩書房)には「岐阜・大垣の西濃は、尾張の城下町として栄えた名古屋にちかく、町人の哲学というべき心学がさかえ、本草学の飯沼慾斎、蘭方医学の江馬蘭斎ら江戸・上方と密接な交流をもつ科学者を輩出している」と記されている。
大垣は芝居や俳諧などの文化水準も高かった。
松尾芭蕉が『奥の細道』の旅を出発したのは一六八九年三月二十七日。約五ヶ月半にわたる長い旅の終着地に大垣を選んだのは、この地に船問屋を営む俳人の谷木因(たにぼくいん)ら、門人が数多く暮らしていたからだ。
芭蕉が大垣に辿りついたのは八月二十一日、四十六歳のときだった。
館内は広々していて、展示物をゆっくり見ることができた。グーグルアースの映像で奥州街道などをたどる展示も見ごたえがあった。
記念館を出て美濃路を散策する。本陣跡や問屋場跡などを見る。
観光マップには「美濃路は中山道と東海道を結び、垂井から大垣の城下町を抜けて墨俣から尾張へと入り熱田の宮の宿で東海道に通じていた」とある。
美濃路は大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清州の六宿があり、朝鮮通信使やお茶壺道中も通った。
江戸期の琉球使節も海路で鹿児島に渡り、瀬戸内海を通って大阪からは陸路で中山道から美濃路を経て東海道を下った。
朝鮮通信使や琉球使節が美濃路を通ったのは、大人数だと桑名~宮間の七里の渡しで行き来するのが大変だったというのが理由だ。
昔と比べると、ずいぶん風景は変わったとおもうが、今の大垣も歴史を感じさせられる町だ。岐阜県と滋賀県の街道はよい印象しかない。毎回楽しい。
大垣と桑名の関係は昔は深かった。地図で見ると、昔の人なら一日か二日で歩ける距離だ。川を下れば、もっと早く着いただろう。
大垣市は中山道の赤坂宿もある。赤坂宿も行きたい宿場町だ。
十五時三十分、大垣駅から米原駅行きの電車は踏み切り事故の影響で十五分遅れで到着する。
米原駅は十六時四十七分、山科駅には十七時三十六分着。京都市営東西線で蹴上駅に行き、白川通を歩いてホホホ座へ。
この日、ホホホ座では橋本倫史さんの『ドライブイン探訪』(筑摩書房)の刊行記念トークショーを開催していた。その前に古書善行堂に寄り、一箱古本市の売り上げ......ではなく、売れ残りを処分したお金を受け取る。
橋本さんのトークショーでは取材時のエピソード、各地のドライブイン写真を紹介。何度も店に通い、それから取材を申し込む。交通費もバカにならない。とんでもなく手間のかかった本だ。
本書の「東海道はドライブイン銀座」には「ドライブインが担っていた役割というのは、かつての宿場町が担っていた役割に近いのではないか」という一文がある。
コンビニや道の駅が普及する以前、車で街道を行き来する人たちはトイレ休憩にドライブインを利用する人も多かった。
夜十時、ホホホ座近くのバス停から四条河原町へ。バスが来なかったら蹴上駅まで歩くつもりだった。でもすぐ来た。
街道歩きをはじめる前は古書善行堂やホホホ座(前はガケ書房)には京阪の出町柳駅からレンタサイクルで回っていた。蹴上駅から歩くコースはもっと早く知りたかった。
この日は僧侶で文筆家の扉野良人さんの家に泊めてもらう。高松から『些末事研究』というミニコミを作っている福田賢治さんも来ていた。
扉野さんも福田さんも若いころ『思想の科学』に関わっていた。わたしも編集部に何度か出入りしている。
近々、福田さんの案内で香川県の街道を歩く予定である。
翌日、メリーゴーランド京都店の古本市を見に行く。千宗室、森谷尅久監修『京都の大路小路』『続 京都の大路小路』(小学館)などを買う。京都の道は奥が深い。
京街道が気になる。大阪の高麗橋から、守口宿、枚方宿、淀宿、伏見宿を経て京都に向かう街道でこの四宿を合わせて「東海道五十七次」と呼ばれていた。
京都から三重に行く途中、どこに寄るか。
出発前、初瀬(はせ)街道のことを調べていた。奈良県桜井市と三重県松阪市を結ぶ街道なのだが、京都から近鉄で三重に行くルート(近鉄大阪線)とすこし重なっている。
京阪の祇園四条駅から丹波橋駅、十二時十七分発の近鉄の特急に乗り換え名張駅へ。十三時二十三分着。
京都から鈴鹿に帰るときは近鉄を利用することが多い。近鉄沿線の奈良県と三重県の県境あたり――山と川と人里が溶け込んでいる昔話の絵のような景色が好きだった。
名張駅で乗り換え、青山町駅には十三時三十七分着。伊賀市青山町には、初瀬街道の阿保(あお)宿がある。
初瀬街道は伊勢道、阿保街道と記された本もある。青山町は未踏の地だ。どんな町なのかまったく知らない。知らないから行ってみたかった。
京都は晴れていたのに青山町はまさかの雨。いちおう傘は持っていた。
ファミリーマートの伊賀青山町店で京都で買った古本と二川宿の資料館の図録などを送る。荷物が軽くなる。
木津川を渡り、青山観光協会に行くと日曜は定休日だった。
『三重県の歴史散歩』(山川出版社)には「この阿保の地は、古代万葉の歌にあるごとく古代から交通路としてさかえた」とある。
すこし南に歩くと初瀬街道にたどりつく。巨大な常夜燈と延命地蔵尊のところでメモを取っていたら、年輩の女性が運転している車に至近距離でクラクションを鳴らされる。
車のクラクションは対車用の音量だから、生身の人間には大きすぎる。しばらく右耳の鼓膜がジーンとする。車向け用と人向け用で音の切り替えができるようにしてほしい。昔は、電車の警笛も人間の耳には耐えられない音量だったが、最近は少し小さくなった気がする。
つい文句を書いてしまったが、この阿保宿の延命地蔵尊のあたりは八知街道という街道の分岐点でもある。
近くに阿保頓宮跡というところがあったのでちょっと寄り道する。土の階段を登る。頂上に着いた途端、ウソみたい空に晴れた。いつの間にか雲がなくなっていた。
再び、階段を下り、私有地っぽい細い道を抜け、初瀬街道に戻る。
歩いている人をほとんど見かけなかった。
初瀬街道交流の館たわらやに寄る(入場無料)。県指定民俗文化財の参宮講の看板、街道にまつわる資料などが保存・展示されている。
交流の館を出て再び街道を歩く。木津川の橋の近くに本居宣長の菅笠日記抄の石碑があった。ちなみに本居宣長は三重県松阪の生まれである。
高校時代、国語の先生が本居宣長の研究をしている人だった。「宣長さんはねえ」とさん付で呼んでいた。
十四時二十分。もうすこし初瀬街道を歩きたかったのだが、急に空がどんよりとしてくる。さっきまで快晴だったのに、わずか一、二分で曇り空に変わる。早送りの映像を見ているみたいだった。いきなり強風が吹き荒れる。気温が急に下がる。小雨が降り出す。
予定としては青山町駅のひとつ隣の伊賀上津駅付近の伊勢路宿の常夜燈まで歩くつもりだったのだが、風は強いし、寒いし、もう無理だと断念する。からだが冷え、手がかじかんでメモがとれない。
たしか天気予報でも冬型の寒気がどうのといっていた。このままだと低体温症になりかねない。
春の街道歩きは気温の変化が激しい。耳まですっぽり隠れる帽子を持ってこなかったことを後悔した。
家に帰ってから、木津川は大阪湾に注ぐ川だと知る。江戸時代には伊勢路宿あたりの米がこの川を渡って京都や大阪に運ばれていたという。三重県内では伊賀や名張は関西文化圏の色合が濃い。
青山町駅に戻り、自販機で缶コーヒーを買い、十五時二分の電車に乗る。鈴鹿までは急行に乗って、だいたい一時間半くらい。
長いトンネルを抜けると、また快晴。伊勢中川駅で名古屋行きの急行に乗り換え。途中下車して駅の外に出る。雲出川のほうまで歩く。だいたい一キロ。雲出川の上流に行けば、伊勢本街道の奥津宿(名松線の伊勢奥津駅)がある。
津市美杉町(旧・一志郡美杉村)の奥津宿は伊勢本街道の宿場町で三浦しをんの林業小説『神去なあなあ日常』のモデルになったといわれる町(村)だ。奥津宿は土の道の旧街道が残っている。三年くらい前まで台風の影響で名松線が運行していない時期があったが、今は再開している。いいところですよ。
歌人の岡野弘彦の生家の神社(川上山若宮八幡神社)もある。
岡野さんの子どものころには鈴鹿市の白子のほうから魚の行商が来たという話をエッセイで読んだことがある。
伊勢中川の雲出川沿いをすこしだけ歩いて、駅に引き返し、平田町駅へ。鈴鹿ハンターというショッピングセンター内のゑびすやで天盛りうどんを食べる。ぎゅーとらで酒とつまみを買い、家に帰る。
夜、母がトシおじさんに電話し、明日、東海道の土山宿(滋賀県)に連れていってもらうことになった。土山宿は鈴鹿峠を越えてすぐなのだが、寒波が到来中は避けたい。
一九八九年三月末、わたしは上京した。かれこれ三十年。
すでに三重にいた時間より東京で暮らした時間のほうが長くなった。中年の旅は自分と町の変化を味わう面白さもある。
十代のころは郷里のことが好きではなかった。早くこの町を出たいとおもっていた。上京後、鈴鹿に帰っても何もすることがなく、父の本棚の本を読んでいた。
五十歳を前にして、ようやく生まれ育った町がいいところだとおもえるようになった。街道歩きのおかげかもしれない。
三十年前に止まったままの郷土の情報を更新するのが楽しい。平成の市町村合併であちこちの町や村が市に統合されている。電話の市外局番が変わっていたりして、けっこう混乱する。
郷里に帰るたびに行きたい宿場町、途中下車したい駅が増えていく。日帰りで岐阜や滋賀にも行ける。地元を退屈だとおもっていたのは、自分の行動範囲の狭さ、好奇心のなさに起因していたにすぎない。
(......続く)