第十五回 神戸-高松-丸亀-琴平-引田-和歌山

  • 読む人・書く人・編集する人―『思想の科学』五〇年と、それから
  • 『読む人・書く人・編集する人―『思想の科学』五〇年と、それから』
    思想の科学社
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  • 『てくてく東海道ぬけまいり 1 (SPコミックス)』
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  • 半自叙伝・無名作家の日記 他四篇 (岩波文庫)
  • 『半自叙伝・無名作家の日記 他四篇 (岩波文庫)』
    菊池 寛
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 香川県・高松で『些末事研究』というミニコミを作っている福田賢治さんとルヌガンガでトークショーをすることになった。
 記念シンポジウムを記録する会編『読む人・書く人・編集する人 「思想の科学」五〇年と、それから』(思想の科学社)では、福田さんがシンポジウムの司会のひとりとして参加している。
 四、五年前まで福田さんは東京にいて、JR中央線の高円寺界隈でよく飲んでいた(ようするに、飲み友だちです)。高松に遊びに行くと、福田さんの家に泊めてもらっている。

 山崎浩著『てくてく~東海道ぬけまいり~』(リイド社)という漫画を読んでいたら「報謝宿」という言葉が出てきた。

《報謝宿は善根宿とも呼び一般の民家の部屋を善意で巡礼者や貧民に貸し与えた無料の宿である》

『てくてく』は、幼い子ども二人が江戸から東海道を通って伊勢を目指す話(途中、よく道に迷う)。伊勢参りをする人を街道沿いの人が施したり、もてなしたりする文化があったようだ。無一文で伊勢まで行く人もいた。
 四国のお遍路さんもそう。
 江戸時代は庶民の移動の自由が制限されていたが、お寺や神社にお参りの旅には寛容だった。伊勢参り、香川の金比羅参りが人気だったのは、そうした理由もある。

 四月二十日、高松に行くにあたり、新幹線で新神戸に行った。三ノ宮からジャンボフェリーに乗る予定だ。
 新神戸には午前九時五十一分着。
 新神戸から三宮まで歩くことにした。新神戸駅を出る。いきなり三宮方面に行く道がわからない。どうすれば、駅の反対側に抜けられるのか。十五分くらい迷う。
 国体道路、フラワーロードを通り、加納町歩道橋のあたりで裏滝道を歩いた。
 午前十時三十分、三ノ宮駅着。再びフラワーロードへ。神戸市役所前に日本マラソン発祥の地という石碑がある。
 三宮からフェリーターミナルまでは何度も歩いている。歩道も広いし、歩きやすい。
 そういえば、小学校の修学旅行は奈良、京都、神戸だった。ポートピア'81が開催された年だった。
 関川夏央著『家はあれども帰るを得ず』(文春文庫)に「神戸で死ねたら」というエッセイがある。
 単行本は一九九二年四月――当時、わたしは大学四年目だったが、関川夏央の本は新刊でずっと買っていた。中でも『家はあれども帰るを得ず』は、好きな本で、一九九二年に大学を中退し、大垣行きの夜行に乗って神戸を旅行した。
 元町界隈のガード下の古本屋をまわり、喫茶店でコーヒーを飲み......ほとんど記憶がない。
 今回の旅から帰ってきて神戸市の人口(推計人口)が川崎市に抜かれ、政令指定都市の七位に後退したというニュースがあった。福岡市に抜かれ、六位になったのは二〇一五年だ。
 日本は二〇一一年から人口減少社会に入った。

 フェリー乗り場で切符を買う。出港は三十分遅れとのアナウンスが流れる。
 船に乗ってしまえば、四時間四十五分――何もすることがない。本を読んだり、うどん(オリーブうどん)を食ったり、デッキに出て海や橋(明石大橋)や島を眺めたり、昼寝したり......。
 東京から高松に行くのはジェットスターに乗るのが安くて早いのだが、やっぱり船ですよ。旅情がちがう。
 本州から高松に行くには、三宮からジャンボフェリー、岡山の宇野港からの船もある。どちらも何度か乗っている。
 桟敷席でごろごろしているうちに小豆島の坂手港へ。十五時三十分。予定より四十分くらい遅れている。
 十六時五十分、高松東港に着く。船で港に到着すると、旅をしたという気分になる。まったく疲れない。からだが軽い。
 港からは高松駅方面の無料送迎バスが出ている。駅からすこし歩いて玉藻公園、高松城に寄る。
 十八時すぎ、琴電の高松築港駅から仏生山駅へ。福田さんに車で迎えに来てもらう。そのまま仏生山温泉天平湯で汗を流す。
 船、温泉、酒。極楽だ。

 翌日、午前中から菊池寛記念館へ。香川大学の近くのサンクリスタル高松という建物の三階にある。サンクリスタル高松は、一、二階は高松市中央図書館、四階は高松市歴史資料館になっている。もより駅はJR高徳線の昭和町駅(今回は福田さんの車で直行した)。
 菊池寛は一八八八年高松生まれ。家は高松藩の藩儒だったが、明治期に没落した。子どものころ、高松の図書館の本の大半を読んだ本の虫。小説家、そして文藝春秋の創設者でもある。
 菊池寛の書斎、双眼鏡、時計、万年筆などの愛用品の展示もある。菊池寛は「芸術は、もつと実人生と密接に交渉すべきだと思ふ」という言葉を残している。
 生活第一、芸術第二――。
 菊池寛記念館で購入した「図録 菊池寛」には「小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である」という言葉があった。
 人生観。まもなく五十歳になるのだが、そんなものはない。
 菊池寛記念館を出て、丸亀に向かう。高松に行く前から福田さんに「丸亀の金毘羅街道を歩きたい」とリクエストしていた。
 ふだん電車と徒歩で移動するので、車の中から見る風景は新鮮だ。運転は人まかせということもあるが、今自分がどこにいるのかさっぱりわからない。
 車のスピードで道路標識やら看板の文字やらどうやって見分けているのか。
 それにしても歩いている人を見かけない。途中、さぬき夢街道という看板も見た。国道11号線の一部の区間のようだ。公募によって決まった名前だそうだ。高松には源平ロマン街道と呼ばれる街道もある。いずれもネーミングセンスが微妙だ。夢とかロマンとかは、できれば心に秘めていてほしい。
 十二時三十分、丸亀市内に入る。さぬき浜街道(浜街道)を通る。浜町商店街をすこし歩く。
 福田さんに香川名物の骨付鳥の店(一鶴)に連れていってもらう。ひなどりととりめしを注文。酒が飲みたくなるが、運転手に申し訳ないので遠慮する。
 丸亀駅の観光案内所で「金毘羅街道」のマップをもらう。このマップは素晴らしい。わかりやすい。
 金毘羅街道は「丸亀、多度津、高松、阿波、伊予・土佐街道」の五つの街道があり、その中でも丸亀街道がもっとも栄えていた。
 車を駅の地下の駐車場に停め、まずは高松港方面に向かう。太助灯籠を見る。大きい。常夜灯もでかい。
 香川は昔から石材の産地として有名だったことを福田さんに教えてもらう。「東讃西讃(とうさんせいさん)」という言葉もあるらしい。東讃は香川県の東部で、西讃は西部。耳で「とうさんせいさん」と聞いたときは頭の中で漢字に変換できなかった。
 後で調べたら、けっこうややこしく、中讃(ちゅうさん)という言葉もあり、高松市や丸亀市は中讃に入る。地元民のあいだでも東讃中讃西讃の区分は意見が分かれている。
 港から駅に戻り、商店街、街道を歩く。古い建物が多く、道標や燈籠をはじめ、あちこちに石碑がある。福田さんは建築関係に詳しく、街道沿いの昔ながらの造りの家の多さに感心していた。
 金毘羅街道(丸亀街道)は街道好きにはたまらない道だろう。自分が知らなかっただけで「江戸の五街道」以上に魅力のある街道はいくらでもあるのだ。
 街道からすこしそれ丸亀城にも寄る。二〇一八年、日本各地を襲った大雨や台風の影響で石垣が崩落し、修復工事中だった。
 丸亀街道は琴平まで続く。一日で歩ける距離なのだが、夕方から高松市内で用事があり、半分くらい歩いたところで駅に戻り、車で琴平に向かう。今度、香川に行ったときはこの道は完歩したい。
 琴平はJR土讃線、高松琴平電鉄の両方の駅がある。
 琴平周辺の街道は燈籠だらけ。江戸をはじめ、全国各地からやって来た人が残したものだ。道幅も旧街道のままで歩きやすい。

 杜山悠著『日本街道一〇〇選』(秋田書店)の最後を飾るのも金毘羅街道だ。

《日本には実に沢山な神サマがあるが、この金比羅さんほど大衆庶民に愛された神サマはあるまい。(中略)『金毘羅、船々、おいてに帆かけて、しゅらしゅしゅ』という、何の事か意味のよくわからない唄が大流行し、歌いつがれて来た》

「しゅらしゅしゅ」のあとは「讃州 那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 いちど まわれば 金毘羅石段 桜の真盛り キララララ」といった歌詞が続く。
 象頭山は琴平山の別名。金毘羅は元々ヒンドゥー教の神様(クンビーラ=ガンジス川の神様を乗せるワニ)で航海の安全を守る船の神らしい。ちなみに、七福神のうち、弁財(才)天(サラスヴァティー)、大黒天(シヴァ)、吉祥天(ラクシュミー)、毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)もヒンドゥーの神様だ。日本ではインドの神様がけっこう祀られているのだが、インドの人は意外と知らない。

 一の橋を渡り、金刀毘羅宮の階段を登る(参道口から御本宮まで七百八十五段、奥社まで千三百六十八段)。今回は途中までしか登らなかった。
 ちょうど金毘羅大芝居が開催中でその会場のあたりまで行く。
 菊池寛の『半自叙伝・無名作家の日記 他四篇』(岩波文庫)にも金毘羅芝居の話が出てくる。

《私は、その頃既に芝居が好きだった。それは、感化に依るので私の母は同じ讃岐の仁尾町の生まれであるが、仁尾から琴平が近いために、琴平に来る芝居じゃ大抵見たらしい》

 子どものころの菊池寛は金毘羅芝居に通いつめた母から、歌舞伎や狂言の筋を教わった。
 菊池寛は作家、文藝春秋の創設者でもあるが、戯曲の作者としても有名だった。
 また街道と文学のつながりを知ってしまった。
 金毘羅さんのあと、金倉川沿いの道を歩く。金毘羅多度津街道の並び燈籠を見る。この道も石燈籠だらけだ。
 四国といえば、お遍路さんの印象が強いが、かつては金毘羅参りの街道筋も栄えていた。四国の金毘羅街道をもっと歩きたい。何年かかるのか。
 JR琴平駅と琴電琴平駅のすぐ近くに高灯籠がある。江戸末期に完成した約二十七メートル――木造の灯籠としては日本一の高さを誇るらしい。この灯籠の明かりは丸亀沖の船にも届いた。かつては灯台の役割を果たしていたそうだ。

 夜、本屋ルヌガンガでトークショー(拙著『古書古書話』の刊行記念)。司会は福田さん。その前に琴電の片原町駅近くの吉野湯で一風呂浴びる。いい銭湯だった。
 イベントの打ち上げ。高松、東京以外からの移住者も多いことを知る。もともと香川は大きな会社の支店が多く、他県から来る人に寛容な土地柄で「支店経済都市」と呼ばれているらしい。昔から転勤族も多い。それと(都会と比べると)家賃も安く、若い人が自由業や自営業をはじめやすい。新しいことに取り組む人を応援するような雰囲気もある。だからすごく活気がある。

 翌日、高松から徳島に行く。午前八時二十九分、JR高徳線の栗林駅からうずしお5号に乗る。
 途中、前日の打ち上げの席で「引田(ひけた)という町が面白いよ」と教えてもらい、寄ってみることにした。
 特急うずしおにはじめて乗る。東かがわ市の引田は醤油で有名な町で古い町並みが残っている。江戸時代は風待ちの港として栄えた町だという。
 午前九時二十分、讃州井筒屋敷。開場時間は午前十時からなのだが、見学させてもらった。醤油の樽をはじめ、古道具などが展示されていた。
 御幸橋を渡り、急な階段をのぼり、誉田八幡宮へ。あちこちで野焼をしていて、煙で海が見えない。海面がかすかに白く光っている。煙が目がしみる。近くには引田城跡、城山展望台もあるが、寄らなかった。そのあと引田港へ。やっと海が見えた。船が停泊している。播磨灘だ。しかし、まだ煙い。堤防の先が見えない。
 政治学者の南原繁の歌碑がある。一八八九年香川県大内郡南野村(現・東かがわ市南野)生まれ。

《城山の
 山のかくめる
 引田港
 われ少年にして
 ここに船出しき》

 その近くに「健康快道」という足つぼの図と道がある。歩いてみたが、痛い。戎橋を渡る。
 車が通れないくらいの入り組んだ細い路地をあみだくじ式に移動し、積善坊、善覚寺、萬生寺などのお寺を見て、駅に戻る。
 午前十時五十五分、引田駅から徳島駅へ。この時間は特急しかない。
 引田といえば、瀬戸内寂聴の父がこの地の出身である。瀬戸内寂聴は徳島の生まれ。引田と徳島は近い。
 香川と徳島を結ぶ街道は阿波街道(讃岐街道)がある。引田は、四国の街道でも重要な場所だった。
 引田駅を出てしばらくすると、電車がトンネルの前で緊急停車。徳島からは南海フェリーで和歌山に向かう予定なのだが、すこし不安になる。
 徳島に行くのは一九九五年一月以来。受験雑誌の取材で訪れた。そのあと高松、大阪と回って東京に帰ってきた翌日に阪神淡路大震災が起こった。
 一九九五年は一月に震災、三月に地下鉄サリン事件が起こり、世の中が一気に変わった。この年、商業誌の仕事を干され、ブラックジャーナリズムの世界に足を踏み入れた(八ヶ月でやめたが)。九五年までは毎月どこかしらの都道府県に訪れていた。中年以降の街道歩きは、昔、行った場所を再訪する愉しみもある。
 電車は十五分くらい止まっていた。特急なのにゆっくり走る。二十分遅れで池谷(いけのたに)駅に到着。この駅で高徳線と鳴門線が分岐する。十一時五十四分――結局、三十分くらい遅れて徳島駅に着く。
 駅前のセルフうどんの店でとろろうどんとおにぎり。駅から港まで歩くつもりだったが、電車が遅れ、時間がないのでバスに乗る。
 徳島から出るフェリーの時間は十三時二十五分。
 南海フェリーで和歌山へ。フェリー+和歌山港~なんばまで二千円の切符がある(「好きっぷ2000」)。
 前からこの切符のことは知っていたのだが、すでに期間は終わっているとおもっていた。まだあってよかった。
 船に乗り、座敷席の角を陣取り寝っ転がっていると、「ここいいですか?」とすぐ隣に六十代くらいの夫婦が来た。他にも空いている場所があるのになぜだ? 横にきた男性のほうがスポーツ新聞を広げ、それが顔に当たる。ちょっとイラっとしたが、鞄を持ち、船の一番上の甲板に移動することにした。天気もよく、あたたかい、風も気持いい。
 船が出る。徳島の町が小さくなっていく。うっすらと淡路島の南側の部分が見える。淡路島大きい。
 今回、神戸から高松、徳島から和歌山と船で移動したが、船旅は快適だ。
 前に徳島に行ったときは大阪に行く高速フェリーがあった記憶があるが、今回調べたらなかった。
 船に乗っていると、陸影を見ても地形がまったくわからない。ほんとうに和歌山に向かっているのかもわからない。
 港が見えてきた。大きな橋が見える。灯台の横を通りすぎる。
 和歌山港に着いたらどうするか。でもこの日、東京に帰らないといけない(翌日、仕事)。
 和歌山は短時間ではまわれない。
 十五時四十分、和歌山港。南海電車の和歌山港駅から和歌山市駅、特急サザンに乗り、なんば駅へ。十六時五十八分。
 なんばの金券ショップで新幹線の回数券を買う。大阪から東京に帰るときは、新大阪発の電車の乗ることにしている(座席がとりやすい)。
 徳島と和歌山にはほとんど滞在しなかったので、日没まで大阪の街道を歩こうとおもう。
 筒井康隆の『東海道戦争』(中公文庫)は、東海道だけでなく、西国街道、伊賀街道、梅田街道などの街道の名前が出てくる。

《桜橋へ出ようとしたが、大阪駅前は大混雑で通り抜けられなかった。しかたなく、梅田街道へ迂回することにした》

 梅田街道(尼崎道)の出発点の難波橋北詰。大阪には何度も来ているが、はじめて街道を意識して歩いた。
 難波橋は、天神橋、天満橋と並ぶ浪花三大橋だ。橋を下りると中之島公園がある。すこし散歩する。若者がいっぱい。
 橋に戻り、梅田街道を歩こうとおもったが、ルートがまったくわからない。大阪の道、むずかしい。やっぱり事前に調べておかないとだめだ。新幹線の時間も迫り、メモをとる余裕がない。若松通りを歩いて曽根崎通へ。それから梅田新道を通り、大阪駅へ。遅延。電車がめちゃくちゃ混んでいる。ギリギリ新大阪駅へ。

 どうにか無事東京に帰ることができた。