第十七回 高尾-小原-大月-石和-酒折-富士宮-岩淵-熱海
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- 『江戸時代図誌〈10〉中山道 (1977年)』
- 赤井 達郎
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六月から七月のはじめにかけて街道歩きを中断していた。梅雨時の街道歩きはなるべく避けたい。雨の日は歩行者が少なく、その分、車がスピードを出す。怖い。車がすれ違うたびに水しぶきを浴びるのもつらい。
七月末、静岡出身の妻の両親から安倍川の花火大会に誘われた(親戚の家の窓から花火がよく見える)。
妻といっしょに静岡に行き、そのあと丸子宿のとろろ汁を食べ、翌日はひとりで富士駅からJR身延線で甲府に向かい、石和温泉の宿(訳ありプラン)に泊り、東京に帰るという計画を立てた。ところが、台風が太平洋沿岸に接近し、花火大会が中止になり、静岡行きそのものも取りやめになった。
しかし石和温泉の宿はおさえてしまっている。青春18きっぷも買った。当初のルートを変更し、山梨から静岡に行くことにした。
七月二十八日、高円寺、午前十一時二分。
JR中央線で山梨に向かう。去年の夏も青春18きっぷの時期に山梨に行った。そのときは翌日、甲府から富士駅に向かう予定だったが、台風の影響でJR身延線が運休になり、断念した。結局、JR中央線で東京方面に向かい、「日本三大奇橋」の猿橋や相模湖に寄った。どしゃぶりの中、甲州街道を歩いてトラック恐怖症になった。雨の甲州街道は悲しい記憶しかない。それより「台風の日に歩くなよ」と過去の自分にいいたい。川沿いの道もけっこう歩いた。無知は怖い。
この日、台風一過で快晴。天気予報では日中の最高気温は三十八度(都内)。午前中から暑い。
JR中央線を途中下車しながら山梨を目指す。まず高尾駅の高尾名店街に行き、高尾文雅堂書店で『八王子宿周辺の名主たち』(八王子市郷土資料館)、『歴史と浪漫の散歩道 改訂版』(八王子市文化財ガイドブック)など、街道に関する資料を買う。高尾名店街は二階のハッピーメガネという眼鏡店の店頭でも古本を売っている。
高尾駅といえば、詩人の黒田三郎(荻窪在住)が酔っぱらって終電に乗って駅を乗り過ごしたときのエピソードをおもいだす。
《終電である。酔眼もうろうとして見ると、あさがや、阿佐ケ谷なら荻窪まで歩いて帰れると安堵してから、よくよく見ると、あさかわであった》(「横山町の模範青年と田村は言う」/『死と死のあいだ』花神社)
一九〇一年、中央線の高尾駅は浅川駅として開設。六十年後、知名度の高い高尾山にちなんで高尾駅と改称された。高尾駅への改称は、「あさがや」と「あさかわ」を間違える酔っ払いが多かったせいかもしれない。
高尾まで電車を乗り過ごした黒田三郎は、八王子に住んでいた三好豊一郎の家に泊ったという。
十二時十八分、浅川駅改め高尾駅から大月行の電車に乗り、相模湖駅で降りた。駅前の喫茶店いかりやで焼きそばを食べる。
窓からプレジャーフォレスト(旧称・さがみ湖ピクニックランド)行きのバスが見える。大学生のころ、さがみ湖ピクニックランドに一度だけ行った。デートだったのか、何かのついでに寄ったのか。まったくおぼえていない。夢だったのか。
相模湖駅周辺は甲州街道の小原宿と与瀬宿の宿場町もある。一年前に相模湖駅で途中下車したときは与瀬宿に向かって歩いたのだが、豪雨に見舞われ、途中で引き返した。
今回は小原宿に向かって歩くことにした。小原宿には神奈川県に現存する唯一の本陣(県重要文化財)がある。JR中央線の高尾駅の先に神奈川県の宿場町があるというのは不思議なかんじだ。
駅前の観光案内所で「甲州古道」のマップを入手する。すでにシャツは汗だく。
地図にない謎の細い坂道を歩いていくと、家が何軒かあったが、行き止まり。道に迷いながら、北相中学校のあたりに出る。相模ダムが見える。相模川はここから平塚のほうに流れている。
小原宿に向かう甲州街道の歩道はガードレールもあり、安心して歩ける。ロードバイクの集団が猛スピードで駆け抜けていく。
JR中央本線の線路と並行して歩いていると「甲州街道小原宿」の道標があり、「ここより2分、甲州街道小原宿本陣」の看板もあった。
ようやく本陣の前に到着する。交通量が多く、歩道をなかなか渡ることができない。
小原宿本陣は入館無料(現存する本陣の無料公開は珍しい)。受付に誰もいない。勝手に入っていいのだろうか。兜造りの屋根がかっこいい。館内にはあちこちに古道具が展示されている。二階には養蚕織機もあった。しばらく本陣の中をうろうろしていると、スタッフらしき人がいたので挨拶する。
甲州街道の八王子宿から横浜にかけての神奈川往還は「絹の道」と呼ばれていた。相模原地域は昔から養蚕が盛んだった。
本陣を出て、行きとはちがう道を歩く。「この先、車は通りぬけられません」という看板を見かけたが、気にせず歩く。坂と階段の道を進んでいるうちに、どこにいるのかわからなくなる。駅のホームは見えてきたが、草の生い茂った道から抜けられず、焦る。
十四時十七分、次の電車にギリギリ間に合った。
大月宿のある大月駅で途中下車。大月観光案内所は日曜日なのに休みだった。デイリーヤマザキでおむすびを買う。
大月宿、ベンチがいっぱいある。歩道も広い。しかし駅前の商店街は店が開いていない。大月橋東詰をこえて桂川を渡る。桂川は相模川水系の本流で釣好きのあいだでは有名な川だ。この日も釣人を見かけた。橋を渡ったが、すぐ引き返した。
大月の地名の由来は、桂川渓谷から出る月が大きく見えたことから、その名がついたといわれている。
二十代から三十代のはじめによく通っていた高円寺の飲み屋は、毎年夏に店主のおばあさんと常連客とで大月の旅館に泊るのが恒例行事だった。わたしも何度か参加したが、当時は大月が宿場町ということを知らなかった。旅館で一晩中飲み明かしていたので観光らしい観光もしていない。月も見ていない。大月の記憶はほとんどない。
大月橋の先に道標があった。甲州街道と富士道の分かれ道のようだ。
帰りは富士急行線の上大月駅から大月駅へ。たった一駅の電車旅。富士急行線に乗るのは人生初だ。
十五時四十三分、大月駅から甲府駅行の電車に乗り、宿のある石和温泉駅ではなく、終点の甲府駅まで行く。
江戸時代図誌の『中山道 一』(筑摩書房、一九七七年)を読んでいたら、徳川家康が甲州街道(甲州道中)を五街道のひとつにした理由を「甲府城をいざというときの避難地と考えた」としている。江戸時代図誌シリーズは、中山道の巻に甲州街道や青梅街道も含まれている。
《(甲府は)富士川を下った駿府と連絡することもできれば、諏訪を経て中山道に出る方法もあった》
甲府駅南口の山交百貨店で衣類などを買い物する。山交百貨店は、今年九月末で閉店という貼り紙があった。甲府に来るたびに寄っていたので残念である。
駅周辺をぶらぶら散歩し、電車で石和温泉駅へ。平等川沿いにあるホテル石庭に向かう。昨年の夏にも泊った。宿に荷物を置いてから、LEDのライトを持ってアピタ石和店へ。酒を買う。さらに石和宿周辺をすこし散策する。夜の空気が心地よい。
二年くらい前に石和温泉から笛吹川と金川の川沿いを歩いて、金川の森というところに行った。笛吹市の一宮町。このあたりは井伏鱒二が余生を過ごしたいと語っていた町である。武田泰淳も一時期この町に住んでいた。笛吹市、人口は七万人を切っているが、店も多く、暮らしやすそうだ。
山口瞳は『温泉へ行こう』(新潮文庫)で「僕は甲府の温泉が好きだ」と書いている。
《温泉というのは、人それぞれ好みがあろうけれど、旅館に着いて、とりあえず浴場へ走っていって、ズボンと飛び込む、これがヌル目であって、漬かっているとジワジワッとあったかくなる。「ああ、いい湯だな」。これでなくちゃいけない》
わたしの泊った石和温泉の旅館も湯かげんは最高だった。でも膝が痛いときは熱い湯に浸かりたい。
翌日、朝五時半くらいに目が覚める。夏の街道歩きは早朝出発に限る。とりあえず、石和温泉から酒折まで歩くことにした。用水路に鯉がたくさん泳いでいる。
甲運橋のほうまで行き、道標を見る。「大山、富士」「身延 甲府」と彫られている。甲府市と笛吹市の境くらい。井伏鱒二が戦時中に疎開していたのもこのあたりである。かつては甲運村という村があった(一九五四年に十月、甲府市に編入)。
甲運橋から旧甲州街道(城東通り)を歩いて酒折へ。酒折は『古事記』『日本書紀』にも出てくる土地で甲州街道と青梅街道の合流地でもある。
街道好きにとって、酒折は避けて通れない町だ。
駅北口の酒折宮に行く。ヤマトタケルが東征のさい、寄ったとされる場所で「連歌発祥の地」としても有名だ。境内には連歌の碑もある。
国学者の本居宣長が撰文、平田篤胤の書による「酒折宮壽詞」もあった。本居宣長も三重の人(伊勢国松坂出身)である。
酒折宮からJR身延線の善光寺駅へ。
ようやく念願だった身延線に乗ることができた。
身延線の善光寺駅界隈は、井伏鱒二が余生を山梨で過ごしたいと語ったとき、深沢七郎が「善光寺あたりのところがいいですね」と薦めた土地でもある。
午前七時二十分、身延線の善光寺駅から東海道を目指す。
たまたま今回の旅に出る前に、高円寺の西部古書会館で望月誠一著『富士川舟運遺聞』(文芸社)という本を入手していた。
富士川は、山形県の最上川、熊本県の球磨川と並ぶ「日本三大急流河川」に数えられている。
富士川沿いには身延往還(身延道)という甲斐国と駿河国を結ぶ街道がある。
電車の窓からぼーっと外の景色を眺める。はじめのうちは混んでいたが、下部温泉駅で乗客が減った。下部温泉は「信玄の隠し湯」として知られる。
次の波高島駅のあたりでようやく富士川が見える。波高島は、富士川、常葉川、さらにすこし北に行くと早川が流れている。ふと川が見たくなり、途中下車するかどうか迷った。
このあたりの地図を見ると、富士川街道という道がある。これも身延往還の別名か。他にも駿州往還、甲州往還などの呼び名もあるようだ。街道名はややこしい。
飯田文弥編『街道の日本史23 甲斐と甲州道中』(吉川弘文館)に「身延道」という項がある。
《日蓮宗総本山の身延山久遠寺へ参詣人が向う身延道は、河内路ともいい、富士川河谷の河内領を横断して、東海道興津宿へ結ばれる脇往還となったので駿州往還とよばれた》
身延山を参詣した人は船で駿河に出ることも多かったらしい。
身延駅が近くなると、急に町が現れる。あと途中まで気づかなかったが、身延線はJR東海の路線なんですね。
身延線の路線距離は約八十八キロ。江戸の旅人は一日約四十キロ歩いた。甲府駅から富士駅あたりまで徒歩だと、峠道などを考慮すると三日はかかっただろう。富士川舟運の下りは同じ距離を行くのに半日くらいですんだ。ただし急流のため、船はかなり揺れた。
電車だと各駅停車で約二時間四十分(特急は約一時間五十分)。
身延駅には午前八時四十二分着。この駅で二十五分停車。途中下車し、観光案内所でマップをもらい、富士川を見てくる。身延橋を渡って、急ぎ足で駅に折り返す。
マップを見ると、久遠寺から身延山ロープウェイもある。この駅は南アルプスの登山者もよく利用する駅らしい。
電車は身延駅からしばらく富士川沿いを走る。絶景につぐ絶景だ。
せっかく青春18きっぷで旅をしているのだから、どこかで途中下車したい。悩んだ末、西富士宮駅で降りることにした。西富士宮駅から富士宮駅まで一駅だけ歩く。富士宮市、おもっていたより大きな町だ。途中、富士宮やきそば学会アンテナショップというところで焼きそばを食べる。
食後、富士山本宮浅間大社へ。そのあと神田宮に寄って、本町商店街を歩く。この商店街は旧街道っぽい雰囲気の道だった。あちこちで祭りの準備をしていた。
あっという間に富士宮駅に到着。近い。駅前交流センターで次の電車の時間まで休憩する。
富士宮駅から電車に乗り、終点の富士駅ではなく、ひとつ手前の柚木駅で降りた。柚木駅から富士川橋を渡って東海道を歩き、JR東海道線の富士川駅に向かう。
しかし暑い。夏の東海道は地獄だ。この日の最高気温も三十七度。アスファルトの上は四十度をこえていたとおもう。一歩ごとに体力が削られる。富士川橋までは一キロちょっとなのだが、なかなか辿りつけず、汗だくになる。
ようやく橋が見えた。その手前に水神社がある。神社に入ると急に風が吹き、涼しくなる。靴を脱ぎ、二十分くらい休憩した。
富士川渡り場跡も見る。富士川橋を渡る。この橋は富士山の絶景ポイントとしても有名らしい。橋の上から観覧車のようなものが見える。家に帰ってから調べると、道の駅富士川楽座のちかくのFuji Sky Viewという大観覧車であることがわかった。この日はそこまで歩く元気がなかった。
長い橋を渡り切り、少し北のほうに歩いて、くるっと西に回り、坂をのぼる。
それにしてもこの界隈、曲り角が多い。西から江戸に向かう人に富士川を簡単には渡らせまいとする強い意志を感じる。
静岡県は富士川、大井川、天竜川と東海道の難所だらけで、川を越えると土地柄、風土、言葉が変わるといわれている。
十二時四十分、岩淵宿に到着。岩淵宿は東海道の蒲原宿と吉原宿の間の宿で富士川舟運で栄えた町だ。
静岡の岩淵と山梨の鰍沢は「タテ流し」という通船が行き来していた。
富士川舟運は、甲斐や信濃の米を駿河に運び、駿河からは塩や魚の干物を運んだといわれているが(下げ米、上げ塩)、『富士川舟運遺聞』ではこの旧来の説に疑問を呈している。
後に米や塩を運んでいたのは史実だが、徳川家康が富士川の整備をしたのは、金銀の運搬が目的ではないかと......。
街道関係の本には、江戸を攻められたとき、半蔵門から甲州街道を通り、甲府から富士川を下って駿府に逃げるための脱出路として、富士川を開削したという説も記されているが、金銀運搬説も興味深い。
本陣常盤家住宅を経て、岩淵の一里塚へ。
何度か迷いそうになったが、道沿いに矢印付の東海道の標識がたくさんある。ドブ板にも「東海道ルネッサンス」と記されている。富士市の東海道愛が伝わってくる。
しかし岩淵に関しては、数ある東海道の宿場町(間の宿)のひとつではなく、身延往還、富士川舟運の町としてアピールするべきではないか。そして長年続く富士山をめぐる静岡山梨の対立に終止符を打ち、身延道と富士川を通して両県をつなぐ役割を担ってほしいとおもう。
地元の人からすれば余計なお世話だとおもうが、そんなことを考えているうちに、JR富士川駅が見えてきた。
当初の予定では富士川駅から吉原駅まで行って、能町みね子著『うっかり鉄道』(幻冬舎文庫)を読んで以来、気になっていた岳南電車に乗るつもりだった。しかし日中の猛暑にやられ、体力と気力がもうない。夏の東海道を甘く見ていた。
岳南鉄道は吉原駅から工場地帯を走る私鉄である。能町さんは吉原駅周辺を歩き、「駅前がガランとしている」と書いている。
東海道の吉原宿は広重の「左富士」で有名な宿場町。JRの吉原駅ではなく、岳南電車の吉原本町駅か本吉原駅のほうに宿場町の雰囲気が残っている。もともと吉原駅の手前あたりが宿場町だったのだが、高波や高潮の被害に遭い、二度所替えした。
江戸時代に東海道のルートはあちこち変わっている。吉原宿周辺もそのひとつだ。岳南電車の吉原本町駅からすこし歩いたところにあるアーケードの吉原商店街のあたりには旅籠が六十軒ほどあった。
能町さんも本吉原駅から吉原本町駅まで歩き、「吉原という街の中心地」の散歩を楽しんでいる。
岳南電車に乗らず、吉原宿にも寄らず、十三時二十七分の富士川駅から熱海行の電車に乗った。また宿題が残ってしまった。
電車の中で体力の回復に専念する。というか、車内で熟睡してしまう。気がついたら、熱海の手前の来宮駅を過ぎていた。出発前に考えていた計画では来宮駅で降り、凌寒荘(佐佐木信綱邸)と潤雪庵(谷崎潤一郎邸)を見ようとおもっていたのだが......。
十四時二十一分、熱海着。自分へのおみやげにカワハギの干物を買い、磯丸仲見世通り店で寿司を食う。満腹、満足。
寿司屋の近くに紅葉山人の筆塚がある。今年一月十七日に熱海市のお宮の松前広場に尾崎紅葉の碑が完成したそうなので、海岸のほうまで歩く。紅葉の記念碑は貫一・お宮の像のすぐ横にあった。
碑文の完成した一月十七日は『金色夜叉』の貫一の名台詞「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」の「今夜」にあたる(原文のセリフはすこしちがう)。
熱海といえば、芥川賞を受賞した又吉直樹著『火花』(文春文庫)で熱海の花火大会の場面が描かれている。
いつの日か又吉直樹の文学碑も熱海に作られるのではなかろうか。
わたしも熱海の花火大会、十年以上前に行っている。酒飲んで寝ころんで花火を見ているうちに寝てしまった記憶がある。
熱海駅からJR東海道線で東京駅へ。東京駅からJR中央線で家に帰る。
今回の旅はぐだぐだでした。