第二十一回 鳥羽-大和朝倉-石上神宮(前編)
もろもろの事情で街道歩きは中断している。旅行業界、大丈夫なのだろうか。
五十歳になったら、わたしは大人の休日倶楽部に入会し、東北や北信越の文学館をまわろうとおもっていた。現在、各地の文学館が休館になり、文学展も延期になっている。今ごろ「街道文学館 おときゅう編」に突入している予定だったのだが......。
前向きに考えるとこれまでいろいろなところに行っておいてよかったとおもう。世の中が落ち着きを取り戻したら、再訪したい町がたくさんある。
時は昨年(二〇一九年)十一月三日に戻る。渥美半島の田原街道をすこし歩き、わたしは伊良湖港から鳥羽行きのフェリーに乗った。色川武大著『引越貧乏』(新潮文庫)に「暴飲暴食」という短篇がある。
色川武大は東京から伊勢に旅行しようと考えている。すると、逐琢(ちくたく)という同世代のフリーランサー(大学に五つも六つも行き、四、五ケ語よくする)がこんな提案をした。
《「――行き方に二通りあるんだ。どっちにするかね。豊橋でおりて、渥美半島の尖端まで行き、そこからフェリーで鳥羽に渡る」
「なにィ――」
「名古屋まで新幹線で行って、近鉄の特急に乗りかえて、伊勢市か鳥羽でおりる。――おい、どうしたんだ」》
読み進んでいくと逐琢は伊勢志摩の出身だという。色川武大マニアの友人の河田拓也さんに訊いたら「逐琢は山際素男ですよ」とすぐ教えてくれた。山際素男はインドの研究者で『脳みそカレー味 岸田今日子・吉行和子とのインド旅日記』(三一書房)などの著作もある。山際素男の郷里の大王町はわたしの母の郷里の浜島町と近い(近鉄のもより駅も同じだ)。
結局、色川武大と逐琢は新幹線で名古屋に向かう。
わたしが伊良湖から船で鳥羽に渡りたいとおもったのはこの作品の影響もある。
十五時五分、船が鳥羽に着いた。近鉄の鳥羽駅からすぐ近くにある伊良子清白の家へ。伊良子清白(一八七七~一九四六)は漂泊の詩人といわれたが、鳥羽に定住し、医師をしていた。伊良子清白の家は診療所兼住居(何度か移築されている)で一般公開されている。
二階の子ども部屋から海が見える。伊良子清白の詩集『孔雀船』に「安乗の稚児」という詩がある。「志摩の果 安乗の小村 早手風岩をどよもし」とはじまる詩で、庄野潤三はこの詩に導かれて『浮き燈臺』(新潮社)という小説を書いた。母に安乗埼灯台のことを聞くと「昔、行ったことあるわ」といっていた。この灯台は木下惠介監督の「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台にもなっている。
子どものころ、毎年夏になると志摩を訪れていたのに知らないことばかりだ。
郷里の三重からJR中央本線で東京に帰ること、それから伊良湖からフェリーで鳥羽に渡ること――このふたつはわが人生の旅でやってよかったランキングの上位に入る。
鳥羽一番街で松阪牛のおにぎりとお茶を買い、十六時二分の近鉄特急に乗り、郷里の鈴鹿の家に帰る。
明日は奈良だ。泉秀樹著『日本「古街道」探訪』(PHP文庫)に「甍の道(初立~奈良)――伊良湖岬から東大寺へ」という章がある。
奈良の東大寺の瓦は、伊良湖岬から運ばれていた。鎌倉時代のことだが。
《渥美半島で陶製品が焼かれはじめたのは平安時代末期(十二世紀はじめ)からで、甕、鉢、茶碗、皿など日常に使う雑記がどんどん舟で伊勢へ運ばれて売られていた》
東大寺再建のために、渥美窯は五万枚の瓦を焼いた。伊良湖から神島のあいだは「伊良湖渡合(どあい)」といわれる海の難所だった。
昔の人も伊良湖~鳥羽~奈良というコースを通った。奈良には古い街道がたくさんある。
奈良を歩くにあたっては駒敏郎著『大和路 文学散歩』(保育社カラーブックス、一九七〇年)を参考にした。五十年前の本だけど、そのままつかえるのが奈良のすごいところかもしれない。この本を読んで「神々の道 山の辺」を歩いてみたくなった。前日まで日本最古の官道といわれる竹内街道か山の辺の道か迷っていたのだ。
《平城京が営まれた頃、山の辺の道はすでによく知られていた。飛鳥に都がおかれた頃、やはりこの道はすでにあった。神話のミコトやヒメたちが、この国を統一してヤマト王朝の基をさだめた頃に、ごくしぜんに発生した道なのだろう》
十一月四日、朝六時前の近鉄電車に乗る。伊勢若松駅、伊勢中川駅で乗り換え、朝焼けを見ながら桜井駅を目指す。
電車に乗っているあいだ、山の辺界隈の地図を見ていたら、桜井駅よりひとつ手前の大和朝倉駅で降りたほうが面白そうにおもえた。
午前八時十五分、大和朝倉駅着。駅を降りた瞬間、「すごいところに来た!」という感覚が足の裏から伝わってくる。
四十代半ばすぎから街道に興味を持ったのだが、新しい扉を開けた気分だ。
(続く)