第二十二回 鳥羽-大和朝倉-石上神宮(後編)

  • 大和路 堀辰雄
  • 『大和路 堀辰雄』
    堀 辰雄,霧 無彦,霧 無彦
    本郷書森
    1,650円(税込)
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 十一月四日、朝六時、近鉄電車に乗って、奈良へ。伊勢若松駅、伊勢中川駅で乗り換える。朝焼けがきれいだった。

 山の辺の道(桜井~天理)は大人の足なら四時間くらいで歩ける。寄り道せずに歩くと十四キロくらい(奈良~桜井のルートだと三十五キロの道程)。東海自然歩道とも重なっている。当初「神々の道」といわれてもピンとこなかったが、東海道や中山道とは別種の道であることはすぐにわかった。厳かな道だ。山の辺の道は天孫族が国を作る前――三、四世紀ごろからあったといわれている。

 二〇一八年四月、堀辰雄著『大和路』(本郷書林)という本が刊行された。堀辰雄は『大和路・信濃路』(人文書院、一九五四年)という変形本もある。街道作家なのである。

 当初の予定では近鉄の桜井駅で降り、そこから山の辺の道を歩くつもりだった。こちらが王道のルートだろう。ところが、電車の中で地図を見ているうちに気が変わり、ひとつ手前の大和朝倉駅で降りることにした。慈恩寺追分の辻を通り、大和川沿いの道を通って海石榴市に行きたかったからだ。
 山の辺の道は京都から長谷寺に参詣する人が通る「初瀬詣で」の道でもあった。

 大和朝倉駅の案内地図には山の辺の道、東海自然歩道、伊勢街道などのルートが記されている。
 橋を渡り、慈恩寺三輪線という道を歩く。途中、川沿いも歩いた。錺馬(かざりうま)の石像あり。しばらく歩くと山の辺の道の案内板があり、「仏教伝来の地」と記された大きな石碑もあった。

 午前八時四十分、海石榴市観音に到着。
 駒敏郎著『大和路文学散歩』(保育社カラーブックス)を読むと、海石榴市はこんなふうに記されている。

《三輪山の南麓の海石榴市は、上古から市場がたち、歌垣なども行われた古い聚落だが、初瀬詣でがさかんになると、その往還の宿場となって賑わった》

 大和川をさかのぼる船も海石榴市を行き来した。古代からの交易市として陸路、水路ともに栄えていたそうだ。『枕草子』『源氏物語』にも出てくる。
 佐藤春夫の「海石榴市の野路に飛び交ふ 虫や何」という歌碑がある。
 わたしは昔の交通の要所で今は寂れてしまっている場所を歩くのが好きだ。歩きながら史跡の案内板を読み、歴史を知る。一見ふつうの住宅街をちょっとそれると、千年以上前の史跡がある。奈良は人々が徒歩で生活していたときの町並がそのまま残っている。

 この日、快晴だった。両手をひろげたくらいの細い道を歩く。
 午前九時、金屋の石仏というところに辿りついた。「山の辺の道」の石標を見て平等寺へ。石標の字は小林秀雄の揮毫である。

 大神神社(三輪明神)は広い。大神は「おおみわ」と読む。「読めねえよ」と心の中で呟く。大和の「一の宮」である。日本最古の神社ともいわれている。薬、酒造の神が祀られている神社としても有名らしい。三輪といえば、素麺。わたしの母は三輪そうめん以外のそうめんを認めなかった。昔、揖保の糸を買ってきたら「こんなもの食わん」とめちゃくちゃ怒られた記憶がある。揖保の糸もおいしいのに。
 大神神社内の店でもにゅうめんを売っていた。
 大神神社から石畳の坂道を通り、しばらく歩くと玄賓庵(げんぴんあん)。八世紀の高僧玄賓が隠れ住んだ庵。明治期の神仏分離で現在地に移った。

 明治政府の奈良の扱いはあまりよくない。一八七六年に奈良県は堺県に編入、一八八一年に堺県が大阪府に合併された。その後、一八八七年に奈良県は復活するのだが、奈良は六年にわたって大阪府だったのである。

 玄賓庵のすこし先に桧原神社がある。
 山の辺の道は見所が多すぎて、ひとつひとつの寺社の印象が薄れる。しばらく歩くと相撲発祥の地、相撲神社、さらに兵主神社がある。
 午前十時二十分、相撲神社から纒向(まきむく)遺跡へ。相撲神社から巻向駅のあたり一帯が纒向遺跡の範囲で、初期ヤマト王権の発祥の地(推定)といわれている。
 このあたりは農園がたくさんある。あちこちで老夫婦、家族連れを見かけた。小学校低学年くらいの子どもも歩いている。街道歩きをはじめて以来、こんなに人とすれちがったことはない。

 歩き慣れたかんじのグループのすこし後ろをついていくと神籬遺跡というところに出た。神籬は「ひもろぎ」と読む。奈良は難読地名が多い。
 古墳がたくさんあるが、一々寄っていたらキリがない。古墳は無視して歩くことにする。景行天皇陵もスルー。

 今回の旅のゴールは石上神宮である。有名な神社だけど、ほとんど予備知識なしに向っている。
 午前十一時、崇神天皇陵あたりで風が強くなる。桜井駅から石神神宮までのルートだと、このへんが中間地点のようだ。
 天理方面から来たとおもわれる集団とすれちがう。みな「山の辺の道ハイキングコース」と書かれたマップを持っている。
 なんとなく自然歩道っぽい道を歩いてきたが、山の辺の道かどうか不安だった。たぶん合っている。

 午前十一時二十分、長岳寺へ。その手前に天理市トレイルセンターという軽食のレストラン、おみやげを売っている施設がある。
 このままのペースで歩けば十三時すぎには石上神宮に着きそうだ。ちょっとした遠足くらいの距離だろうか。車がほとんど通らないから快適だった。

 長岳寺から北へ。石畳の道を歩いていると柿本人麻呂の万葉歌碑があり、その近くのベンチですこし休憩する。目の前で三毛猫が横になる。
 山の辺の道の歌碑は三十八もある。

 午前十一時五十分、すぐ近くの大和稚宮神社で休憩する。靴を脱ぎ、足の裏を揉む。新しい靴下に履き替える。

 山の辺の道、歩き終えるのがもったいない。「YWA」という青い旗を持った集団が続々とやってくる。五十人? まだ続く。百人? YWAは大和ウォーキング協会らしい。しばらく歩いているとYWA集団の第二波と遭遇する。何人いるのか?
 こじんまりとした五社神社を通り、分かれ道。衾田(ふすまだ)陵のほうに向って歩く。途中、段々畑みたいな古墳があったが、名前がわからない。
 小さなお店でよもぎ入りの大福もちを買う。三個二百五十円。
 大和古墳群の案内板(写真付)がある。古墳は上から見たほうがわかりやすい。
 風が強く、帽子を飛ばされそうになる。子どもを肩車しながら歩くお父さんとすれちがう。
 竹之内環濠住宅というところを通る。ここは大和竹之内とは別のようだ。大和竹之内は少年時代の司馬遼太郎がよく過ごしていた村である。

 十二時五十五分、石上神宮まであと二・六キロ。気力も体力も余裕がある。あと十キロくらい歩けそうだ。車やトラックがバンバン走る国道を歩くときとは疲れ方がまったくちがう。すべての街道が山の辺の道みたいだったらいいのに。

 十三時五分、夜都伎神社を通りすぎ、坂道をのぼる。ちょっときつい。あと石上神宮まで一・五キロのところで急坂になる。
 内山永久寺跡に寄る。芭蕉の句碑がある。

《うち山や とざましらずの 花ざかり》

 松尾芭蕉が「宗房(むねふさ)」と名のっていたころの句らしい。二十六、七歳のころの句(諸説あり)。

 十三時三十三分、石上神宮に到着。古代の兵器庫だった。昔は石が武器だったのかな(適当)。神宮にはにわとりがいっぱいいた。石上の読みは「いそのかみ」だった。ずっと「いしがみ」とおもいながら歩いてた。今日のゴールはここだ。あったいものが食べたい。石上神宮から天理駅に向って歩く。天理教の施設だらけ。鉄筋コンクリートの建物が立派すぎる。もうちょっと寂れていてほしい気がしたが、余計なお世話か。天理本通のアーケードのお食事処つるやでかやくうどんを食べる。

 山の辺の道を知ってしまうと、ふつうの街道では満足できなくなりそうだ。土の道がくねくねしている(舗装されているところもあるが)。山があって古墳があって寺や神社があって木々に囲まれ心地よい勾配がある。散歩の楽しみがてんこもりなのだ。

 天理駅には十四時五十分着。JR桜井線(万葉まほろば線)で桜井駅へ。近鉄の桜井駅の観光案内所で山の辺の道のマップをもらった。
 電車で郷里の三重に帰る。奈良は近い。余裕で日帰りできてしまうのだが、宿に泊りたかった。次はそうする。