第二十三回 横浜-我孫子-取手
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- 『一本刀土俵入―長谷川伸名作選 (1984年) (時代小説文庫〈92〉)』
- 長谷川 伸
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今年二月中旬以降、新型コロナの影響で街道歩きをしていない。三月中旬に五十肩になった。いろいろボロボロですよ。でも元気に歩けるうちに全国の街道を旅したいというおもいも強くなる。
二月十五日(土)、神奈川近代文学館の獅子文六展を見に行った。神奈川近代文学館は一年前の二月の花田清輝展もよかった。花田清輝展は雪の日に行った記憶がある。
この日、横浜の港にはダイヤモンドプリセンス号が停泊していた。ずいぶん昔の話のようだ。
神奈川宿の旧街道のほうに行くと幕末から明治初期にかけての歴史名所がたくさんある。坂や階段も多い。
東京の八王子と横浜を結ぶ道は神奈川往還(八王子街道)と呼ばれる。幕末から明治にかけて「絹の道」と呼ばれていた。
京急の神奈川新町駅あたりから「神奈川宿歴史の道」がある。神奈川宿から保土ケ谷宿にかけての東海道は何度か歩いている。
神奈川新町駅近くの神奈川通東公園(長延寺跡)にはオランダ領事館が置かれたと説明がある。歴史の道の起点だ。良泉寺、能満寺、神明宮などを通り、東神奈川駅へ。このあたりはフランス領事館跡、イギリス領事館跡がある。
浅間町交番から洪福寺松原商店街(相鉄本線天王町駅)も旧東海道も面白い。江戸時代まではJR横浜線、京浜東北線の東神奈川駅あたりが栄えていて、第一京浜の滝の橋の付近に本陣があった。
幕末から開国にかけての横浜は長崎の出島のように堀で囲まれていた。
牧村健一郎著『評伝 獅子文六 二つの昭和』(ちくま文庫)の「異国への扉――横浜」という章からはじまる。ひとりの人物が生きた背景が微細に描かれていて、明治大正昭和の日本の変遷がわかる名評伝である。
獅子文六は一八九三年生まれ。山下公園近くの横浜マリンタワーのすぐ後ろの水町通りに獅子文六の父が営む絹物貿易と小売の岩田商店があった。旧・外国人居留地にあり、客はほぼ外国人だった。
獅子文六は「文士というものは、遊びが本業だという説もある」といっていた。ゴルフや野球が好きで、食のエッセイも残している。
獅子文六展では創作ノートも展示されていた。登場人物の設定、人間関係、物語の構成――作品ごとに年表を作っていることを知った。
鳥居民著『横浜山手 日本にあった外国』(草思社)によると、今の港の見える丘公園は浅間山(浅間様)があったという。
《港の見える丘公園は、山手公園や元町公園と比べれば、その開園はずっと新しい。だが、百年前、ここには英仏両国の軍隊が駐屯し、この外国軍隊の駐留から山手の歴史ははじまっているのである》
横浜は日本最初の遊歩道ができた町でもある。
一八六二年、後に薩英戦争のきっかけにも生麦事件が起きた。遊歩道を作ったのは居留民が東海道に馬車で乗り入れるのを防ぐためでもあった。
横浜の遊歩道は一八六五年十月に完成した。
翌日の二月十六日、午前九時二十六分、東京駅へ。午前十時、我孫子駅へ。
この日は水戸街道を歩く予定だ。水戸街道は日本橋を起点に日光街道の千住宿から水戸に至る街道で正式名称は水戸佐倉道といった。
我孫子も水戸街道の宿場町である。
我孫子駅を出た途端、雨が強くなる。あっという間にズボンがずぶ濡れ。車が怖い。風が冷たい。用水路沿いの歩道を歩く。国道六号線の妻子原からJR常磐線の天王台駅方面に向って旧水戸街道を歩いた。
天王台駅からは旧街道ではなく線路沿いの道を歩き、南青山入口の信号で線路をくぐると、歩道の広い道に出た。家に帰って調べてみたら日の出通りという道だった。午前十一時半、「四季の路」という遊歩道を歩く。たぶん春か秋だったらいい道なのだろう。しかし今は冬、しかも雨。なぜこんな日に知らない町を歩いているのか。地図を見るのも一苦労だし、メモをとる余裕もない。今後は冬の雨の日に街道を歩くまいと決意する。
しばらく歩くと利根川が見えてきた。
利根川河川敷を歩いているうちに千葉と茨城の県境をこえ、取手市に入る。県境、川ではないのか。
昔、千葉出身の飲みともだちのKさんが「千葉県は島だ」といっていた。千葉は茨城と地続きの部分がある。島説はまちがいである。
十二時十二分、小堀の渡し船着場入口の看板が見えた。小堀は「おおほり」と読む。「運行中」のピンクのぼりが風に揺れている。
すこし南に行くと古利根沼がある。芝原城跡のほうまで行くかどうか迷ったが、雨が強くなってきたので引き返す(悪天候の日は無理をしない方針だ)。
十二時二十分、船着き場へ。次の船は十三時。四十分待ち。客はわたし一人だけ。船着き場の人にミルクティーをもらう。甘い。からだが温まる。
昨年、坂口安吾の取手時代のことを調べていたとき、地図を見ていたら小堀の渡し船着場があった。
川を船で渡りたい。これは街道歩きをはじめてからの夢だった。
小堀の渡し船は風速や波高によっては欠航になることもあるようだ。この日、霧がけっこう出ていて視界はよくなかった。
船の運転手さんに「お仕事ですか?」と聞かれる。「はい、真冬の雨の日にびしょ濡れになりながら街道を歩く仕事をしています」とは答えなかった。
十二時五十五分、すこし小雨になる。
小堀の渡しは百年以上の歴史がある(一九一四年~)。
一九一四年に利根川の河川改修で小堀地区が南北に分断され、対岸飛地ができた。その町を結ぶために住民が自主運航で渡し船をはじめたそうだ。
救命胴衣を身に着け、船が出発。風が強い。十三時三十分。川向いのふれあい桟橋に到着する。料金は二百円。
とりあえず取手駅まで歩く。
我孫子駅から国道六号線を歩き続けていたら、もっと早く取手駅に着いていたとおもう。
取手時代(一九三八年〜四〇年)の安吾は貧乏だった(というか、裕福な時期はほとんどなかった)。
取手時代の安吾は利根川で釣りをしている。当時の安吾は三十二、三歳。一文無しというか、知り合いからの借金で暮らしていた。竹村書房の社長の紹介で取手に住むことになった。
『風と光と二十と私と』(講談社文芸文庫)に「釣り師の心境」という随筆がある。
《私を取手という町に住まわせた本屋のオヤジも釣り狂で、むつかしいことを言うのが好きであった。井伏鱒二なども微妙なことを言うのが好きであるから、釣り師の心境であるかも知れない》
安吾自身はそれほど釣りが好きではなかった。取手のことも冬が寒いと文句をいっている。安吾は新潟出身だが、寒さに弱かった。
晩年の安吾は利根川の町に移住を考えていた。安いゴルフ場がたくさんあるというのがその理由だ。妻の坂口三千代は千葉県の銚子市の出身だったことも関係あるかもしれない。
話はそれたが、取手駅まで早足で歩く。何でもいいから温かいものが食べたい。できれば、うどんが食べたい。
十三時四十五分、取手駅東口の旧取手宿本陣染野家住宅に寄る(毎週金曜日~日曜日に公開)。水戸藩主徳川斉昭の歌碑もある。
そのあと茨城百景の大鹿山長禅寺に寄るつもりだったが、空腹に抗えずスルー。駅ビルのボックスヒル取手の横浜田中屋でかつ丼ランチ(うどん付)を食べた。
なお、ボックスヒル取手は今年三月二十六日からアトレ取手に名称変更された。
長谷川伸の代表作『一本刀土俵入り』の舞台は水戸街道の取手宿が舞台だ。
長谷川伸は一八八四年横浜の日出町生まれ。獅子文六も日出町界隈に暮らしていたことがある。
横浜と取手は見えない道でつながっている。