第二十五回 近所の鎌倉街道 前編

  • ここに神戸がある―司馬遼太郎追想集
  • 『ここに神戸がある―司馬遼太郎追想集』
    司馬 遼太郎
    月刊神戸っ子
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  • ヤマケイ新書 東京発 半日徒歩旅行
  • 『ヤマケイ新書 東京発 半日徒歩旅行』
    佐藤徹也
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  • 東京古道探訪 江戸以前からの東京の古道を探る歴史散歩
  • 『東京古道探訪 江戸以前からの東京の古道を探る歴史散歩』
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 三月以降、晴れの日一万歩、雨の日は五千歩の散歩を日課にしている。もっとも歩数は気分次第で増えたり減ったりする。だいたいの目安だ。
 JR中央線の高円寺界隈に住みはじめて三十余年になるが、歩いた記憶のない道がたくさんある。高円寺から早稲田通り(古道説あり)をこえると中野区大和町や野方になる(一部、早稲田通りの高円寺側も中野区の地域がある)。道一本またぐだけで町の雰囲気がすこし変わる。
 それから週一ペースで神保町の古本街のパトロールもしていた。神保町もかれこれ三十年以上通い続けているが、それでも知らない道だらけだ。遠くに行かなくても、近所にだって未知の道はいくらでもある。

 八月二十二日(土)、ふと思い立ち、高円寺から電車に乗ってJR目白駅へ。古書往来座に行く。古書往来座のもより駅は池袋駅なのだが、高円寺からだと目白駅は百七十円、池袋駅だと二百二十円で運賃が五十円もちがう。さらにいうと目白駅からのほうが人も少なくて歩きやすい。
 往来座で『生誕百年 杉浦明平の眼』(田原市博物館、二〇一三年)を買った。
 杉浦明平は一九一三年愛知県渥美郡福江村(現・田原市折立町)生まれ。地元では町議会議員もやっていた。本とレコードのコレクターでもあった。『東海道五十三次抄』(オリジン出版センター、一九九年)など街道に関する著作もある街道作家だ。ルポルタージュというか、記録文学でも知られる。武田泰淳が『新・東海道五十三次』で渥美半島を車で移動中も杉浦明平の名前をあげていた。
 かつてわたしは鳥羽から伊良湖、伊良湖から鳥羽にフェリーで渡ったとき、渥美半島の田原街道を二度ほど歩いたが、田原市博物館は寄ることができなかった。というか、杉浦明平の文学展パンフの存在すら知らなかった。

 古書往来座のあと、鬼子母神から雑司ケ谷、早稲田界隈の古鎌倉街道(鎌倉みち)を歩く。鎌倉街道は諸説いりみだれ、専門家のあいだでも意見が分かれる。地形や川の流れも昔と今とではちがう。旧街道や古道は坂が多く曲がりくねった道が多い。なんとなくの印象だが。
 鎌倉街道の中道は北区の赤羽あたりで王子方面と板橋方面に分岐し、王子からの道が雑司ケ谷や早稲田、板橋からの道が中野を通っていたといわれている。ちなみに赤羽は高円寺から直通のバスもある。

 早稲田、目白、雑司ケ谷の「わめぞ」という本に関係するグループが生まれ、鬼子母神のみちくさ市などの古本市も行われているが、このエリアは古鎌倉街道でもつながっていたのだ。
 金乗院(目白不動)のところに宿坂道の看板あり。宿坂通りをしばらく歩く。長い下り坂がある。面影橋から早稲田通りへ。花見のころ、酔っぱらってよく歩いた。
 西早稲田の古書現世に寄り、向井透史さんと雑談する。『司馬遼太郎追想集 ここに神戸がある』(月刊神戸っ子、一九九九年)も買った。
「これは見たことないな」
「値段いくらにするか迷ったんですよ」
 古書現世の近くの通りも古鎌倉街道という言い伝えがあるらしい。

 早稲田通りを歩いて、小滝橋から神田川沿いの遊歩道(神田上水公園)を歩く。小滝は「おたき」と読む。川沿いの道は木陰が多く、風がひんやりしていてちょっと涼しい。夏は帽子(できれば通気性のよいもの)は必需品である。街道歩きに備え、アウトドア用の新しい帽子を新調した。あご紐も付いている。橋の上を歩くとき、これまで何度か風で帽子を飛ばされそうになった。
 今さらながら「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね」は映画『人間の証明』の有名な台詞だが、もともと西條八十の詩の一部と知る。
 西條八十は牛込区(現・新宿区)の生まれで、早稲田大学に通っていた鎌倉街道詩人だった。
 またしてもわたしが唱えている「文学は街道から生まれる」説が立証されてしまった。
 遊歩道を歩いていくとJR東中野駅が見えてきた。東中野界隈も鎌倉古道らしい道がある。

 この日から数日後、『東京発 半日徒歩旅行』(ヤマケイ新書、二〇一八年)と『東京発 半日徒歩旅行 調子に乗ってもう一周!』(ヤマケイ新書、二〇二〇年)の著者の佐藤徹也さんと高円寺のコクテイル書房で「中年と旅」という対談をした。
 その前の打ち合わせで街道や歩き方の話を佐藤さんにいろいろ教えてもらった。酔っぱらうと街道の話が止まらなくなる。
 佐藤さんはスペインのサンチャゴ巡礼の経験者でもある。
「半日徒歩シリーズ」は「町歩き」ではなく「道歩き」といってもいいくらい「いい道」が選び抜かれている。
 膝痛中年のわたしは一日あたりの街道歩きの適性距離のことで悩んでいたのだが、佐藤さんは「一般の人が歩いて楽しいとおもえる距離は十一、二キロじゃないかな」という。たぶんそうだろう。およそ三里。だいたい三時間(わたしはメモをとりながら歩くので約四時間かかる)。
「半日徒歩旅行」シリーズは全頁に付箋が貼りたくなる。読んで歩けば、この本に紹介されている道がいかに選び抜かれたものかきっとわかるはずだ。

 二月中旬に「街道文学館」で水戸街道の取手宿付近を歩いたとき、小堀(おおほり)の渡しの話を書いたが、『東京発 半日徒歩旅行』の「小堀の渡しと利根川」で佐藤さんが紹介していた。
『東京発 半日徒歩旅行 調子に乗ってもう一周!』のお気に入りは「荒玉水道道路」である。
 ある日、佐藤さんは小田急線の沿線で酒を飲んでいて終電を逃し、タクシーで高円寺に帰る。そのとき運転手さんに「お客さん、水道道路通ってもいいですか?」といわれる。

《翌朝、二日酔いの頭をおさえながら「水道道路」ってなんだ?と地図を開いたところ。ありましたよ。多摩川の河畔から高円寺に向かって延びる水道道路が。まずひと目見て思ったのは「なんてまっすぐなんだ!」ということ》

 わたしも読んですぐ地図を見た。「まっすぐだ! しかも斜めだ!」
 というか、この道、何度も歩いている。でも道の名前は知らなかった。荒玉水道は多摩川の水を杉並区や中野区に送水するために作られた水道管のこと。正式名称は「東京都道428号高円寺砧浄水場線」。荒玉水道道路は通称のようだ。
 東京メトロの東高円寺駅と新高円寺のあいだの青梅街道付近にある高円寺地域区民センターセシオン杉並(梅里)のすぐ西側の道だ。そこから京王線の桜上水駅、世田谷区の砧----多摩川まで続いている。「荒玉」は荒川と多摩川からとっている。

 そんなこんなで雑司ケ谷から早稲田までの鎌倉街道かもしれない道を歩いて約一ヶ月後に話は飛ぶ。
 九月十九日(土)の午前八時、高円寺の家を出る。近所の鎌倉街道っぽい道を歩くつもりである。
 鞄には荻窪圭著『東京古道散歩』(中経の文庫、二〇一〇年)を入れた。
『東京古道散歩』の「第3章 鎌倉街道編」からは「面影橋から鬼子母神へ」や「大宮八幡宮から中野へ」などを参考した。
 大宮八幡宮の近くには杉並郷土博物館がある。そして郷土博物館の中には杉並文学館がある。さらには荒玉水道道路も近くを通っている。
 道がわたしに歩けといっている気がした。

 環七を渡り、明大中野キャンパスを通る。中野区役所のところに「かこい」と題した犬の像(五匹、子犬をいれると六匹)がある。このあたりに徳川綱吉の犬屋敷があったらしい。
『東京古道散歩』の「大宮八幡宮から中野へ」の「北野神社」は打越天神北野神社のこと。中野界隈には新井山梅照院(新井薬師)のすぐそばに新井天神北野神社もある。
 高円寺からも近いので新井薬師界隈はよく散歩する。中野駅北口から中野ブロードウェイを抜け、早稲田通りを渡ってすぐのところに薬師あいロード商店街があり、歩くたびに道の雰囲気が「旧街道っぽい」とおもっていた。この商店街も鎌倉街道説がある。

『東京古道散歩』に従い、打越天神北野神社を起点に鎌倉街道といわれている道を探索する。
 午前八時三十分、打越天神に到着する。『東京古道散歩』には明治初期の地図とウェブの地図が付いている。荻窪圭さんには『東京古道探訪』(青灯舎、二〇一七年)という本もある。この本の話は「近所の鎌倉街道 後編」で書くつもりだ。
 もみじ山通りをざっくり南西に向って歩く。
 昨年一月、大雪の日にJR中野駅から目黒区の日本近代文学館まで歩いたときにもこの道を通った。いつの間にか知らないうちに鎌倉街道かもしれない道を歩いたり車で通ったりしている。

 話が脱線してばかりだが、このときの展示は「生誕100年記念 林忠彦写真文学展 文士の時代 貌とことば」だった。林忠彦は文士の写真で知られるが『林忠彦写真集 東海道』(集英社、一九九〇年)も刊行している街道写真家でもある。

 午前八時五十四分、もみじ山通りと青梅街道の交差する場所に出る。この近くに中野区立追分公園もある。道を渡ると、鍋屋横丁(通称・なべよこ)だ。その入口付近に妙法寺道標がある。
 街道に興味を持つまで、道標なんて気にしたことがなかった。しばらく行くとお題目石という妙法寺への道しるべもある。
 そうこうするうちに十貫坂上へ。くだり坂が続く。歩幅を狭く歩くことを心がける。
 十貫坂地蔵堂(民間信仰石塔)を通り、和田商栄会へ。気がつけば、中野区から杉並区に入っていた。旧街道や古道を歩くときは、くねくねした道に逆らわないのがコツだ。道の曲がりに身をまかせ、ぼーっと歩いていたら、不動堂を通りすぎそうになる。東京、不動堂がたくさんある。そのすこし先では救世軍のバザー会場があった。寄りたいが、ガマンする。
 午前九時二十五分、杉並区立和田中学校。二〇〇三年、都内公立中学では初の民間人校長(藤原和博さん)が就任し、有名になった中学校である。
 五分くらい歩くと再び環七へ。さらにもうすこし歩くと掘丿内熊野神社と向山遺跡があった。善福寺川まであとわずか。
 午前九時四十五分、本村橋に到着。本村は「ほんむら」と読む。案内板には「郷土博物館 1340m」。
 ずっと片手に持っていた『東京古道散歩』を鞄にしまう。ここからは鎌倉古道ではなく、善福寺川沿いの遊歩道を歩くことにする。
 善福寺川は神田川の支流である。ジョギングをしている人がいっぱいいる。犬の散歩をしている人も多い。
 紅葉橋のところのベンチで休憩する。ちょうど一万歩。自販機で缶コーヒー。靴をぬいで休む。これは宮田珠己さんの教えである。
 十分ほど休憩し、川沿いを歩き続けていると、荒玉水道道路だ。水道道路を歩けば、郷土博物館はすぐ着くのだが、急ぐ旅ではない。もうすこし川沿いの道を歩く。「遊び場87番」という公園を抜けると「うかい路」の看板がある。なんか工事中みたいだ。
 これまでの人生をふりかえると「うかい路」ばかり通ってきたなと......。最近、道を歩いていると、昔のことをよくおもいだす。
 しばらく歩くと再び善福寺川――和田堀公園観察の森、そして杉並区立郷土博物館には午前十時三十分到着。家を出てから約二時間半か。郷土博物館の敷地内にも民間信仰石塔がある。
 受付で杉並文学館は十月三十一日からといわれる。「準常設展 杉並文学館 井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士 風流三昧」のチラシをもらう(十月三十一日から十二月六日まで)。
 郷土博物館に入館し、鎌倉街道のコーナーや甲州街道の高井戸宿のジオラマなどを見る。
 今のわたしの夢のひとつは街道関係のジオラマ職人に会うことだ。
 鎌倉街道コーナーには、板碑(石製の塔婆)の分布状況などから杉並区に鎌倉街道が通っていたと考えられるといった説明があった。ただし「いわゆる"鎌倉街道"として伝承されている道がいくつか存在します」とぼんやりしている。
 阿佐ケ谷や荻窪方面にも鎌倉古道(かもしれない道)がある。
 日本中至るところに鎌倉街道あり。
 杉並文学館は休みだったが、文学展のパンフレットは販売していたので『杉並文学館 井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士』『生誕百年記念 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界』などの展示図録を買う。
『杉並文学館 井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士』には「杉並の作家」百五十九人の杉並に居住していた地図が付いている。
 この日歩いた鎌倉古道っぽいエリアには林房雄、龍膽寺雄、中野重治が住んでいた。
 ちなみに荒玉水道道路沿いには有吉佐和子がいた。
 杉並区郷土博物館は一九八九年に開館した。わたしが上京し、杉並区民になった年と同年である。

 杉並文学館は郷土博物館十周年を記念し、一九九九年三月十三日に開館した。近所の古本屋で開館の案内のハガキをもらい、初日か二日目あたりに行った記憶がある。

 当時、二十九歳。商業誌の仕事を干され、家の蔵書とレコードを売りながら昼から酒を飲む日々を過ごしていた。九九年の秋、高円寺の飲み屋で知り合った岡崎武志さんに『sumus(スムース)』という書物同人誌に誘われた。『sumus』に参加したことが、わたしの人生の転機になった。
 杉並区立郷土博物館が開館した年に上京し、杉並文学館の開館した時期に古本随筆を書くようになったのは、きっと文学の道祖神の導きがあったにちがいない。脇道にそれてばかりだが。

(......続く)