第二十七回 哲学の道−伏見稲荷−亀山−四間道 その2
今年の正月以来、十ヶ月ぶりに郷里の鈴鹿の地を踏む。鈴鹿ハンターのゑびすやでうどんを食べる。さすがにくたくただ。
翌日、起きたら十一時前。いちおう母と喫茶店で朝食をすます予定だったが「モーニングの時間、終わってもうたわ」と文句をいわれる。
しかし店に行ったら、モーニングは十一時半までやっていた。ギリギリ間に合った。文句いわれ損だ。
ちょうどこの旅行直前に島村恭則著『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』(平凡社新書)という本が刊行された。
この日、立ち寄った亀山のB級グルメ、亀山みそ焼きうどんや東海圏の喫茶店のモーニング文化なども紹介していて勉強になった。
《三重県の亀山市は、江戸時代に、現在の市の中心部が東海道の宿場町(亀山宿)として栄えたほか、第二次世界大戦後も、国道一号線、名阪国道、東名阪自動車道、伊勢自動車道、新名阪道路が市域を通る交通の要衝としての性格を有してきた》
わたしも街道を歩くようになってからそのことを知った。郷里にいたころは隣の市なのに亀山にはほとんど行ったことがなかった(自転車だとすぐ行ける)。
一九五二年に旧東海道が国道一号線に指定され、沿道には次々とドライブインが開業した。子どものころ、亀山のドライブインには何度か行った記憶があるが、よくおぼえていない。
『みんなの民俗学』では亀山のドライバー文化とみそ焼きうどんの関係を論じている。
もともと亀山に立ち寄ったドライバーたちのあいだで地元の味噌味のホルモンが人気だった。
《ある食堂で店員が賄い用としてホルモンにうどんを入れたところ、ホルモンの旨みをうどんがちょうどよく閉じ込めてたいへんおいしかった。そこで、店でもホルモン焼きの追加メニューとしてうどん玉を提供するようになった》
それが亀山みそ焼きうどん誕生秘話のようだ。B級グルメと街道の関係も深い。
喫茶店を出て、近鉄電車に乗って名古屋へ。
十三時すぎに近鉄の名古屋駅。帰りの新幹線は「二三四」の法則で十八時六分の東京行きの指定を取る。のぞみの二百、三百、四百番台は新大阪発の新幹線なのだ。博多発より空いていることが多く、当日でも窓側の席をとりやすい。
それから東山線で今池駅へ。
名古屋は地下の町であり、予備校時代に名古屋で地上に出るのは千種か今池だった。
二〇一九年四月に東山線の元山駅から今池駅界隈に古本屋のシマウマ書房が移転している。店内に入ると、音楽が流れている。なんか聴いたことがある声だなとおもいながら、曲を聴いていたら、管楽器のパートが入って、知り合いの仙台のバンドyumboの曲だとわかる。
シマウマ書房で街道関係の本を何冊か買い、名古屋駅に戻り、円頓寺(えんどうじ)商店街へ。この商店街、十年以上前にブックマーク名古屋の一箱古本市で歩いたことがあった。商店街の中に寺や神社もある。名古屋駅から歩いて十分十五分のところに昔ながらの商店街と古い家が残っている。不思議なかんじだ。
この日は美濃路と四間道(しけみち)のどちらを歩くか迷ったが、四間道を歩くことにした。古い土蔵と格子造りの家がつらなり、町並み保存地区にも指定されている。
《伝馬橋を渡ると白壁の続く四間道がある》(沢井鈴一著『名古屋の街道をゆく』堀川文化を伝える会、二〇一〇年)
同書によると、この四間道界隈には『海に生くる人々』『セメント樽の中の手紙』で知られるプロレタリア作家、葉山嘉樹が住んでいたそうだ。葉山嘉樹は高円寺にも住んでいた。
ちなみに美濃路は中山道の垂井宿と東海道の宮(熱田)を結ぶ脇街道である。
愛三岐----東海三県はまだまだ知らない街道がたくさんある。
東京に帰り、十一月二十八日、神奈川近代文学館の「大岡昇平の世界展」に行った。三月開催予定が、新型コロナの影響で延期になっていたのだ。『成城だより』(全三巻、中公文庫)を読んでいたら、中学時代の同級生に『東海道五十三次』『山陽道』の著者の岸井良衞がいたと知る。
やはり文学と街道はつながっている。