第34回 お茶界の偉い人 陸羽様のこと
とうとう陸羽様のことについて語れる!!
連載開始時から、この時を手ぐすねひいて待ち構えておりました(第三回でちょこっと書いたけど、まだまだ足りない!)。
だってね、陸羽様と言えば、お茶界のスーパースター!! お茶界のトップアイドルです。二つ名は、茶聖(茶神は孔子さんの方)。前回の乾隆帝さんもいい感じだったけれど、やはり一番は陸羽さまをおいて他にはおりません。
今も語り継がれる、世界的ベストセラー、お茶界のバイブル「茶経」の著者にして、一生をお茶に捧げた凄い方。ノーベルお茶賞があれば、受賞間違いなし。
我が心の陸羽様を語るに、キータッチにも熱が入ろうというものです。
陸羽様がお生まれになったのは、733年、開元時代とされています。
自伝「陸文学自伝」には「何許の人なるを知らず」とあるので、生まれもわからず、名もない捨て子だったようです。唐の復州竟陵県、今の湖北省天門市ですね。
三才の時に、捨てられていたところを竜蓋寺(後の西塔寺)のお坊様に拾われ、その名前から陸をいただき、姓を陸、名を羽、字を鴻漸と名付けられます。
勉強はできたけれど、お坊様にはなりたくなかった陸羽様、育ての親の智積禅師に「あのぅ、僕できれば仏典ではなく、孔子の文を学びたいのですが......」と掛け合ってみますが、仏典第一、仏典万歳、と言うかここお寺だから、とすげなく断られ、下働きとしてこき使われることとなります。
牛を追い、草を刈りながらも、独学で勉強を続けていた陸羽様ですが、お坊様からは「あ、あいつまた言うこと聞かずに余計な勉強ばかりして!! ええい、鞭打ちだ!!」と折檻されてばかり。
つくづく嫌になった陸羽様、とうとう、お寺を飛び出します。行き着いたのは旅回りの一座、ここで脚本書きとしてしばらく頑張るうちに、めきめきと実力を発揮し、演劇祭の監督を命ぜられたり大活躍。才能にあふれた人だったんですねぇ(でも、智積禅師は「外典(仏典以外)を勉強したいなら許す。でも、役者だけはやめときなさい」と嘆いたそうですよ。駄目ですかね、役者......)。
火門山の雛夫子につき、ばりばりお勉強をした陸羽様、今度は20歳の時に、やっぱり左遷されて司馬(軍事をつかさどる官職のこと)となった崔国輔さんと知り合います(このパターン多いですね)。陸羽様を大変気に入った国輔さん、秘蔵の文箱や白馬、黒牛をプレゼントしたというから、なんかちょっとBLのにお......なんでもないです。
この間、世間は大騒ぎ。楊貴妃とか、玄宗皇帝とか、安史の乱とか。歴史は大変苦手なので省きますが、要するに乱世です。あちこち物騒です。こりゃいかん、と安全を求めて逃げ出した陸羽様がたどり着いたのが、苕渓でした。陸羽様、この時29歳。良いお友達もできたり、「韻海鏡源」という500巻もある辞書の編纂に関わったり、なかなか充実した毎日だったようです。
では、陸羽様はいつ「茶経」を書かれたのか。はっきりしてませんが、だいたい758~761年のあたりに書かれ、その後も加筆を繰り返したのではないか、となってます。
さぁ、もういい加減長くなってしまったので、肝心の「茶経」の中身に関しては、次回。