第20回 武田泰淳・佐々木基一・開高健 鑑賞篇3
- 『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫』
- 笠原 和夫,スガ 秀実,荒井 晴彦
- 太田出版
- 4,629円(税込)
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■ある朝、武田泰淳は突然に
武田泰淳ってひとはエラいなあ、と感心し、その名前が僕のウスラバカな頭に刻まれたのは高校一年生の秋のことだ。午前中、国語の退屈な授業の時に、パラパラと教科書を繰っていると、映画の評論が書かれていた。内容はウロオボエで申し訳ないけれど、確か、パニック映画で「誰を生かし、誰を殺すか」ということを平易だが、ジワンと迫力のある文章で綴っていた。その書き手こそが武田泰淳で、その一つの評論で僕は「娯楽映画を観て、スゲエこと考えるひともいるもんだなあ」と尊敬してしまった。
それまでに尊敬する小説家、というか「なんというひとだ!」と驚いたのは川端康成で、「禽獣」「母の初恋」を小学校五年生の冬に読んでしまい、そこはかとないエロスを感じたものだった。
しかし、いわゆる純文学とかには疎く、もっぱら芥川龍之介と山本周五郎、小林秀雄、橋本治ばかり読んでいた僕は、武田泰淳の考え方も感銘をうけたからといって、作品を手にとることはなかった。二十六歳の時に「風媒花」(講談社文芸文庫)を読み、「司馬遷」「蝮のすゑ」「我が子キリスト」(以上は講談社文芸文庫)と進むまでは。
後藤明生が焦点を二つ持つ楕円形の作家として武田泰淳を挙げていたけれど、アタマの悪い僕にはイマイチ理解ができないでいる。僕が武田泰淳に惹かれるのは評論での価値転倒ぶりのかっこ良さ。小説での物語性に富む展開を盛り込むところだ。「我が子キリスト」はノワール小説のように読める「裏切り」の物語として楽しんだし、「士魂商才」と「貴族の階段」(岩波現代文庫)、そして「風媒花」もまた、ゾクゾクさせる知的エンターテインメントだ。
いっぽうで、同じ中国白話文学を研究していた士大夫的な竹内好と対照的に地面を這いずるような生活をする武田泰淳は「ウンコも食べた」という逸話・神話を読むにいたって、「やあ、エラいもんだ」と更に感動してしまった。
そういう作家へのインタビューを行った本がある。「混沌から創造へ」(中央公論社)がそれだ。聞き手は開高健と佐々木基一。
■「混沌から創造へ」という尻切れトンボ本
まずもって、この本は五段階評価で三くらいの出来であることを言っておく。それは肝心の「創造」を探る段が異常に少なく尻切れトンボであることだ。そろそろ盛り上がるというくだりで、あれ? 終わり? と、ずっこける。巻末、取ってつけたように二本対談がある。竜頭蛇尾の典型的本かもしれない。
じゃあなぜ? と訊かれたら、僕はこう答えるしかない。
「あー、でも前半、中盤まで面白いんですよ。武田泰淳が開高健にやいのやいの言われてて。佐々木基一のほうもフォローになってないようなことを喋るし。インタビューとして失敗してるけど、拡散してる感じがいいのかな」
開高健は釣りバカ、酒好き、エロ推奨の文人だと「週刊プレイボーイ」のエッセイなんかしか読んでないアラフォー仲間は思ってるのが結構な数でいる。間違いじゃないけど、「巨人と玩具」「パニック」や「夏の闇」「輝ける闇」を読んどくと意外に真面目な作家だとわかるはず。芥川賞選考会での厳しい論評も根が至極真面目だからだろう。だが、語りは大阪人のカリカチュアかと思うほどウルサイ、シツコイ。「混沌から創造へ」ではその個性が存分に発揮されている。
もう一人の聞き手、佐々木基一は唐突ですが二枚目です。講談社文芸文庫の「私のチェーホフ」で好きになった批評家なのだが、花田清輝や安部公房の仲間と撮った写真を見ると、まあ、これが男前なのだ。映画評論家の岩崎昶も甘いマスクだったが、勝るとも劣らないかっこ良さ。文章も二枚目。河出書房新社から全集が刊行中だから確かめてみるのも悪くない。
この二名の聞き手だけで豪華だ。そして相手は武田泰淳なのだから、期待せぬほうがおかしいというもんだろう。
■二頭立てのインタビューの失敗
開高健のしつこさの一端をまずお目にかけよう。性に目覚める頃、というくだりなのだが。
開高 ちょっと飛躍しますけど、武田さんが童貞を失ったのは幾つですか。
武田 よく覚えていないけど......よく覚えていないというのはヘンな話だけど。(笑)
開高 ちょっとおかしいけどね。(笑)
武田 つまり、はっきりしないわけだよな。
開高 佐々木さん、眉につば塗ってよ(笑)。おれはいまヤブ突ついているんだから(笑)。えらいこと聞いてるんだから、テレないで受け止めてよ(笑)。はっきりしないというのはおかしいじゃないですか。
武田 つまりね、あの......。
開高 こんなことは誰だって覚えていますよ。
武田 いや、それがそうでないんだな。
開高 それはおかしいなあ。
武田 それは説明しないとわからない。
開高 こまかく、自然主義リアリズムで描写してください。
武田 いや、何リアリズムでもかまわんけどね。だけど、つまり、あれでしょ、セックスについては、だね......。
開高 もっと即物的にやっていただきたいんだなあ、ザッハリッヒに。
いきなり脱線して申し訳ないけれど、(笑)について気になるところがあったので一席。引用箇所で二度以下の様な(笑)の使われ方をしている。
武田 よく覚えていないけど......よく覚えていないというのはヘンな話だけど。(笑)
開高 ちょっとおかしいけどね。(笑)
これは、「。」の後に来ている。で、開高健の言葉では別の形で使われている。
開高 佐々木さん、眉につば塗ってよ(笑)。
前者は話の後なので話者が笑っているだけでなく、席上の三人が笑っているとみていいだろう。後者は話者のみが語りつつ笑っているというニュアンスか。いまでは、こういう厳密な(笑)の処理は珍しくなった。対話、インタビューでの(ナントカ)の使い方は、時として場の空気を理解させるテクニックなので、復活して欲しいと思う。
さて、開高健のしつこさだ。読むと武田泰淳の困惑、テレが伝わるが辟易している感じもする。佐々木基一も開高のフォローもせず、
わずか一言、玉ノ井へのコメントを述べるにとどまる。二頭立てのインタビューの場合は、刑事映画よろしく、脅かしつつ追求をやめぬ役となだめ役が交互に追求していくものだ。ところが、この本では開高健が追求者なのだが、佐々木基一はなだめ役を通り越して、武田泰淳の伴走者の立場をとってしまっている。開高と佐々木には打ち合わせがあったようだが、浅いものであったように感じる。本文中に「時系列で聞く」という方針を開高がバラしているが、狙いはその程度であって、佐々木の世代と開高の世代の了解事項や不可解事の選り分けがなされていなかったのではないか。
転向後の話題で、マルクスのものはダメだがヘーゲルは許されていたくだりがあり、開高健は「ヘーゲルはいいのか」と訊く。すると佐々木が「いい」と言い、話は検察官が武田に「マルクス主義文献はいいから、ゲーテの『ファウスト』をマスターしろ」という話題へいってしまう。しまいには転向後の武田の精神地図は消し飛び、当時の読書傾向に向ってしまう。
これはインタビュー以前に佐々木=武田の世代的結びつきへ開高健が割り込めないようになっている証拠になっている。武田泰淳へ訊くならば、開高健は佐々木基一を味方につけ、当時の転向者の心理についてや読書についてなど弾を用意ししておくべきなのだ。この本では佐々木基一が武田泰淳の壁になり、開高健がその壁の前でウロウロするという図になってしまっているのだ。
なので、後半の創作の話題で「武田泰淳の長編は何故に尻切れトンボが多いのか」ということは、簡単に処理されてしまう。
佐々木 いつも、書き出しのことばで、はずみをつけるんだよ。
という一言とそれに続く「はずみをつけて、それから振子運動がはじまるわけ」で説明のカタがつく。これは変だ。説明は武田泰淳に求めねばなるまい。それだのにインタビューする側の佐々木基一がシメている。
こういったやり取りが続き、創作に関する武田泰淳の話は短く、饒舌な開高と静かな解説者になった佐々木の「鼎談」と化す。最後は武田泰淳の「批評家ががいなかったら、ぼくは存在できません。おそろしいことです。(笑)」で終わる。
インタビュアー、敗退の巻である。
敗因は開高健と佐々木基一の役割分担の不徹底にある。
作家・武田泰淳に対してインタビューを行うのならば、彼の作品のテクストを直接ぶつけるなどの手もあったはずだし、彼を評する竹内好や三島由紀夫などの言葉も引用すべきだったろう。脚本家、笠原和夫への二頭立てインタビュー「昭和の劇」(太田出版)では大胆に作品引用も行い、成功を収めている。僕が小野民樹さんに随行した新藤兼人へのインタビュー「作劇術」(岩波書店)は、その成功例を踏まえて全脚本を質問素材にした。
大物作家へのインタビューは、単独では資料読解、時代風俗理解などで厳しい面もあるので二頭立ては有効だ。けれど、何か隠し球がなければ、創作の秘密までは迫れない。作家とは「嘘つき」であり、秘密保持者である。そして「真実を隠す垣根」を幾重にも巡らす城主である。幾つも語ってもいい話を用意しているわけなので、迫るなら無意識で自意識が割り込むはずの「創作物」をもって攻め立てるしかないのではないだろうか?