第24回 インテリ幇間インタビューアー 小沢昭一 鑑賞篇7
■一緒になって盛り上がるひと
幇間という職業がある。一般にタイコモチと呼ばれるようなひと=芸人だけど、その軽い名前の響きとは逆に特殊な職能を必要とされるものだ。以前、雷門助六さんの話を伺った時〈馬鹿をメッキした利口〉じゃないと駄目と仰っていた。落語家は舞台を「高座」と呼ぶけれど、幇間は「修羅場」と言うんだとも、そこで初めて知った。
けれど現代、幇間に直接触れるという機会はとっても少ない。僕も一回だけ、映画の指導でやってきた助六師匠の姿を遠目で拝見しただけだ。だから想像で考えるヒントとして落語や映画に現れる姿に頼るしかない。
この幇間のイマージュにピタッと来るのが小沢昭一だ。僕の小沢昭一像はラジオでのパーソナリティとしては意外に印象が薄い。小学生の頃、夜釣りに行く際にラジオをぶら下げてると、彼の声がした。「秋田のどっかにこれこれという場所があって美人がいた」とか全国の後ろ姿美人を語ってたりとかの話題でちょっとエロい感じがしたものだ。当時、僕のエロおやじランキング一位であったはかま満緒だったが、それに次ぐ二位は小沢昭一というひとだった。
その後、高校、大学を経て映画を浴びるように観た。そこで俳優・小沢昭一に巡りあい、カッコ良いなあと思った。いや、出てくる小沢は怪人的だったり、助兵衛丸出しだったり、ちょこっと出てきて強烈な死に方をしたりの変なアクターだった。けれど、なんだろうか、金子信雄や藤村有弘などのクセモノ俳優(デタラメな役作りをマジで演る)の中で極めてバカだったのだ。この一本! となれば川島雄三監督、新藤兼人脚本『しとやかな獣』だろう。ここのピノスケだかなんだかの小沢昭一は金髪なのだ! とりあえず二世で、もう記憶が飛ぶようなキャラクターの演技。この役に並ぶのは、大島渚『帰って来たヨッパライ』での殿山泰司だけだ。あのタバコ屋の婆さんも必見だ。
閑話休題。そういう怪演経由で小沢昭一ってなんだろうかを考えるようになり、彼の書いた日本芸人のルーツ本なども手に取るようになった。考察や旅行記、回想ものも面白いけれど、聞書もいい。小沢昭一がやるインタビュアーは聞き出し役というより、一緒に盛り上がる。幇間のような立ち位置で、どんどん話を広げて面白くしていこうとするのだ。
■ストリップ関係者と騒ぐ
小沢昭一『清談・性談・聖談そして雑談』(白川書院)という本を代表にしてみる。この本で小沢は田中小実昌、あがた森魚、吉行淳之介(まただ!)という著名人からストリップ関係者までに話を訊いている。ここでの「女ひとり この道を往く」が面白い。序盤でノセる話をかます小沢。
小沢 ことしの水着の流行は、背中がビニールで透けてみえる、いや、お尻の割れ目まではっきり映るらしいですね。どこかの婦人雑誌で読んだんですが。そうなると、劇場に行かなくても、ストリップを見ることができるっていうわけで(笑)。
ストリッパー相手に軽い挑発だ。その後すぐに「ストリップの奥義、妙味」はなんだと訊く。
広瀬 正体を見せちゃいけないことだと思いますね。
小沢 広瀬さんはたしか扇の舞いを発案した。扇を使って、マエのところを隠しながら踊っていましたね。徹頭徹尾、見せようとして見せなかった。お客はずいぶんイライラして頭に血をのぼらせたと思うんですが、アレは大変に脳の神経に悪い踊りだった(笑)。
広瀬 それは、申しわけありません(笑)。
小沢 でも究極は見せない。見せたら終わりだという、なるほどね。
広瀬 だって、見せてしまったら、今度はなにも見せるものがないですからね。
小沢 しかし、近頃は内蔵まで見せてしまう(笑)。
広瀬 バタフライがいつか落ちるんじゃないか、はずれるんじゃないか、というスリルがあったけれど、今はもうそんなのはダメですね。そんな甘っちょろい考えじゃなくて、右か左かはっきりしないと(笑)。
小沢 でも、踊っていて、お客をイライラさせる快感みたいなものはありませんでしたか。
広瀬 そこまでは考えませんでした。ただ、イライラじゃなくて、お客さんと気持ちが通じるようになるのが楽しいと思いましたね。
小沢 気持ちが通ずるってことは、やはりお客をイライラさせることになるかもしれない(笑)。
広瀬 そうですか。でも、わたし、そんな罪つくりした覚えはないんですが......(笑)。
小沢昭一のインタビューでは笑いが続出する。(笑)があまり連続するのは読者をシラケさせるとかの理由で、意外に嫌われる。けれど小沢の場合は燃料投下のようなもので、笑いと「なるほどね」という相槌が話を進める原動力になっている。会話の流れで身振り手振りを入れさせるほどに小沢の盛り上げは巧い。初舞台の話を聞き、相手が抵抗がなかったと言うので小沢は「そうなんですか」などと驚かない。普通に受け止めて返す。ここらへんも、ただワイワイやるだけじゃないクールな幇間の一面がある。
小沢 現在のぼくらと同じようにね。いまは日本の子どもたちだってヌード写真を見ても驚きませんからね。それと同じかもしれない。
広瀬 アソコとココを隠せば(前と胸に手をやりながら)平気でしたね。やはり、少しおかしかったのかしら......(笑)。
男役を演じたストリッパーである小月冴子へのインタビューではやや力みがある。小沢昭一としてはレズビアンではないときっぱり言う小月の魅力を歌舞伎役者の味わいと重ね、なんとか結び付けられるような話を、と努力するのだが。
小沢 素踊りっていうんですか。紋付きと袴で小月さんがいつか歌舞伎座で踊っていらしたのを見たことがあるんですが、ブルブルって感じましたね。
小月 ハア、師匠の会で「竜虎」を踊ったときのことですか。
小沢 それに、こうしてお会いしていると小月さんは歌舞伎の俳優さんという感じがするんです。いや、死んだ橘屋と......レビューの踊り子さんにどうして歌舞伎の俳優の味わいがあるかと思うくらいですよ。
小月 いやですよ。そんなことはないですよ。パサパサしておんな気をかんじないっていうんじゃないですか。
小沢 同性愛に拘泥するわけでないけれど、男と女の性別を超えた色気みたいなものを感じるんです。
小月 自分じゃわかりませんね。自分では女であると思っていますが、実際には男であるとか女であるとか、そういうふうな人間でありたいなあ――と思いますね。
小沢 歌舞伎は、そうした性別を超越したところがあると思うんです。おやま(女形)といっても男であるし......。
小月 でも、どちらかに徹したほうが魅力ですね。
小沢 徹している人もいるけれども、どっちでもないところに徹しているということも大変なことで、小月さんにはそうした面が感じられますね。それと、理屈でなくても感覚では何が正しくて、何が正しくないかを肌身で感じ取れる人ですね。ところで、これまでに結婚のお考えは? 自分でも「あ、いかん」と歯止めをかけようとして、結婚の話題を最後に繰り出す。
小沢昭一は根本的にインテリである。彼の仲間である西村晃や北村和夫、今村昌平といった面々は、永井荷風と別な意味合いの「やつし趣味」を共有した(西村晃や加藤武は違うか)。若い頃は正岡容のもとへ出入りし、次に川島雄三らとバカ騒ぎ、その後はルーツ探しへ向かうという。今村昌平は土俗を求め、小沢昭一もその影響下でスタートし、独自の進路を切り拓いた。小沢、今村共に東京のシティボーイズであることは忘れてはならないだろう。都会の土俗信仰は、田舎はバカに出来ない、もとは日本は女系社会であるから女は強い、などの話が出来上がっていく。逆に青森の田舎者であった川島雄三は都会的、ソフィスティケートを目指しつつも、「幕末太陽傳」「グラマ島の誘惑」など一貫して仄暗い日本の湿りを、田舎信仰など感じさせずに描き出せた。この小月と小沢のやりとりの難しさは、小沢のインテリがヌッと顔を出してしまったせいだ。
インタビュアーは頭がいい感じではいけない。アホか空気かくらいのものでないと苦しい場面が出てきてしまうという一例になっている。
■映画界の怪人・長谷部慶次と騒ぐ
映画の役割で音楽と撮影以外はすべて経験していると言われる長谷部慶次。「豚と軍艦」以降の今村昌平作品に関わり、土俗的「わけのわかならない」感じを加えたのは彼の仕事だろう。僕も三度、学生時代に長谷部慶次さんにお会いした。最初は学校で。登戸だったかの駅で二度。なんというか一見知的紳士だけど、喋りが怪しいのだ。怪しいというのは詐欺的というか、「この人の映画論やら人間論は独自ですごい」と思わせてしまう。これは今村昌平にも通じていて、南の島の血縁の世界や東北の信仰を語る場合、次のように話すのだ。僕の日記からの引用なので正しいものではないかもしれないが記す。
今村「南島論というものが、かつて、日本の若者たちにも魅力に映じた頃があった。わたくしは、この南島論というものを、頭ではなく、肉体でね、その身体で受け止め、考察したわけだ。これは日本の学説にはない、わたくしの考え方に他ならないのでありますが、直裁的言うとね、南も北も女なんだね」
この続きは結果、女というものをいかに近代は隠蔽し、性というもののルールが人間性を形作っていったかを語っている。気がつくのは自信たっぷりに持論をぶつ。自分の考えだとはっきり言う。けれど聞き手は正しい考えのように感じてしまうマジックがあるのだ。それは「あります」とか「わたくし」の堅い言葉と口語のラフな語りかけを混ぜているところにある(あと、今村は俳優経験者なので異様に声がいい)。
その味は長谷部慶次にもある。小沢昭一は彼と対談し、今村昌平的なぬらぬらした田舎の物語は「フィクション」であり、ないからこそロマンティックに追いかけているんだと、自分の経験を踏まえて語る。聞き出し上手である小沢昭一は長谷部慶次に田舎信仰のフィクション性を語らせようとするが、映画界の怪人が一枚上手の巻になる。長谷部へ日本の土俗はじつは今村的ヌメヌメではなくカラッとしてるんじゃないかと振るのだが。
長谷部 ああ、そうですか。
この一言だ。そこから必死に食い下がる小沢なのだが、田舎を探訪したと言えば、足を使ったかとかしか応じないのだ。結果は長谷部ペースでやられてしまう。
小沢 ですからけっきょくさっきの〈山路来て〉だと思うんですね。周辺遅滞には山路を越えたセックスはないんじゃないか。周辺地帯というのはいまの表層的なセックス文化ですよね。いまのセックス文化を追っかけているところはどうもセックスはないような気がする。で、なぜないかというと非常にむずかしいんだけれども。(笑)。つまりもうそこは二輪車でしょう。あれは二人ですよね、都合。だいたい、三人でやるもんですかね、セックスというものは。
長谷部 ぼくに聞いたってわからない(笑)。そのほうは小沢先生にうかがわないと。
小沢 三人でやるととってもおちつかないですよ。
長谷部 騒がしい?
小沢 騒がしい。
長谷部 姦しいわけだね(笑)。
このように長谷部に手玉に取られてしまうところは、小沢昭一の弱点のインテリ性だと思われる。だが、ここで小沢は幇間ではなく、素顔の「考える人」になり、意外な話を引き出す。今村昌平映画の魅力の根幹に触れるのだ。
長谷部 日ごろ悪い遊びするとこわいでしょう。
小沢 こわいですね。だから、したわしいものはこわいですね。
長谷部 だから、今村昌平氏が『エロ事師』で髪ね、御堂の中の。あれとかね、暗い中をのぞき込む――。なにを祀っているのかわからないみたいな、あそこをすかしてみると、そういうところになんとなくこわさを、そういうものに戦慄感をおぼえてる、これがたまらないんだと思うんです。
小沢 あの人で恐怖劇をつくったらきっとおもしろいものができるんじゃないですか。(後略)
まあ結果は今村昌平は「土俗へ踏み込んで正体あばきますね。あばくだけじゃなくて、それを自分の中へくらい込んで別世界を築きあげてしまう」と称えるのだが。
小沢昭一的インタビューで気付かされ、学べるのは、
①冷静に乗せて乗せて語って語らせる。
②時としてインテリなツッコミを行うと話が止まる場合がある。
③考える人として一緒に語っていくと、意外な話が転がり出る。
という三点だろうか。