第3回 坂本香料に、ミキサードリンクの起源を聞きにいく 〈後編〉
(「第2回 坂本香料に、ミキサードリンクの起源を聞きにいく 〈前編〉」より続く)
1.洋酒へのあこがれ
昭和30年代から40年代にかけて、日本人の心をとらえたのはウイスキーでした。
経済成長とともに、やってきたのはサラリーマンの時代。それまでの酔うための酒から、楽しむために飲む、充実した人生のシンボルとしてのスコッチウイスキーが憧れの的になります。
さて、国産ウイスキーの草分けは、アルコール(ホワイトリカー)を輸入モルト原酒と混合したヘルメスウイスキー(1911[明治44]年摂津酒造製造、寿屋販売)やトリスウイスキー(1919[大正8]年・寿屋発売)です。
1930(昭和15)年、政府は価格統制のため、ウイスキーに度数に応じて酒税を課す級別制度(1・2・3級)を設けます。当時の酒税法は、3級のウイスキーを、原酒が0~5%入っているものと規定してありました。要するに模造でOKだったわけです。
日本の本格ウイスキーの創始者、竹鶴政孝・著『ウイスキーと私』によると、大正時代「日本の洋酒は、全部イミテーションであった」と書かれています。アルコールを水で薄め、砂糖をこがして作ったカラメルで着色し、エッセンスを加え、完全に純合成によって作り出す「ウイスキー」です。
昭和28(1953)年に、級別制度を特級・1級・2級に改めますが、2級の原酒混和率は依然として5%未満、1級は5%以上10%未満でした。このホワイトリカーがメインの2級ウイスキーが、昭和30~40年代に伸びたのです。飲み方は30年代がハイボールスタイル、40年代は水割りでした。
神武景気にわく昭和30(1955)年、2級ウイスキーとおつまみの豆が100円で飲めるトリスバーが登場。TV受像機が100万台を越えた昭和33(1958)年には鉤鼻の伯父さんのイメージキャラクター「アンクル・トリス」の広告がはじまり、昭和36(1961)年には「トリスを飲んでハワイへ行こう」キャンペーンを打ちました。昭和30年代半ばまでのハイボールのブームは、サントリーが演出したものです。
サントリーは前身の寿屋時代の大正9(1920)年、別会社の登利寿株式会社から混成ウイスキーに炭酸を混ぜた発泡酒「ウイスタン」を発売しましたが、売れなかった経緯があります。戦後になってハイボールの人気がでたのは、進駐軍、アメリカの影響でしょう。ハイボールは米語。ソーダのボール状の泡が高く上がっていくから、High-Ballだという説が一般的ですが、福西英三・著『洋酒うんちく百科』によると、1890年代からアメリカで広がった言葉で、当時、丈の高いタンブラーをハイボール、低いロックグラスをローボールと呼んだ俗語から来ている。グラスを握る手の形が、野球のボールを握るのにそっくりだから、という説が紹介されています。
バヤリースやコカ・コーラが、アメリカのオーラで光り輝いて見えたのと同じように、ハイボールも、戦後、庶民のあこがれになったと考えられます。
私の親の世代までは、特級ウイスキーが神通力をもっていたことを思い出します。大嶋幸治・前掲書によると、昭和40~50年代のサントリー・オールドの小売価格2000円に対し、ジョニ赤が5000円、ジョニ黒は1万円。150%と220%という法外な酒税を課されていたためです。
ウイスキーは昭和49(1974)年に焼酎を抜いて、ビール、清酒につづく第3の酒となり、昭和40年代にはオールドが年間1200万ケースという、単独銘柄で世界一の売り上げを記録しました。
怒涛のようなアメリカ文化の流入によってつくりだされた、戦後のウイスキー全盛時代。そのなごりが焼酎ハイボールです。酎ハイは戦後日本を規定した「アメリカの影」をみごとに体現する存在だといえるでしょう。