第4回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈前編〉
東京の中小清涼飲料メーカーの、知られざるモノづくりの歴史を探訪するインタビュー・シリーズ。
第3回目は、元祖・焼酎ハイボール原液の製造元・天羽飲料の堺由夫社長。これまで明らかにされてこなかった、東京の酎ハイ(焼酎割り飲料)文化の核心に迫る重要な証言が飛び出しました。
1.序章
「酎ハイ」の起源をたずねる本シリーズも、しだいに核心に近づいています。酎ハイには、もともと東京東部の沖積低地(東京低地)、足立・荒川・江戸川・葛飾・江東・墨田の江東6区にかつて広がっていた、工場地帯の地域文化という側面がありました。
今回、取材したのは、酎ハイのそうした起源を考える上で、欠かせない会社。元祖・焼酎ハイボールの原液製造の大本命、天羽(てんば)飲料製造有限会社です。
ここは、人気深夜番組『タモリ倶楽部』その他へのメディア露出で、一躍その名が知られるようになりました。マスコミ的には、天羽飲料が製造する「謎のエキス」の物珍しさから、興味本位でとりあげられるケースが多いのですが、じっさいはレトロな製造家ではなく、東京のものづくりの原点、家族経営のメーカーの、ひとつの理想形をあらわす、こだわりに満ちた会社です。
堺由夫・代表取締役社長は1950年生まれの、天羽飲料3代目。インタビューに同席していただいた丸居政子さんは、堺社長の生年から天羽飲料で勤め上げている、超ベテランです。
じつは、「天羽」は、「あもう」が徳島 ・鳴門での、本来の読み方だそうです。
「うちの親父とうちのお袋は親戚同士、丸居さんも、みんな親戚。天羽も堺も、みんな鳴門出身です。でも関東の人は、「あもう」と読んでくれない。「てんば」が多いので、屋号の読み方もそう変わりました」
と、いきなり「知られざる事実」を明かしてくれました。たしかに謎の多い会社です。
「いままでずっと秘密主義でやってきたから、これからも謎のエキスでやってくれとお得意さんには言われます。だけどこういう時代ですから、本当の話をしないとみんな曲げられちゃうので、(マスコミに)出たんです。でも依然として抵抗は強いですよ。大々的にやんないでという声が多い」
表立って名前の出ない会社が、じつは歴史をつくってきたことに、興味をそそられます。
酎ハイの歴史を語る上で、このお二方以上に適任な人材は、今の東京中を探しても、おそらくいないでしょう。正しい歴史を伝えようとするお二人の話は、取材前に期待していたよりもずっと真摯で、熱く、そして奥の深いものだったのです。私のような勉強不足の手合いは、自分の無知を思い知らされて、ひたすら恥じ入るしかありませんでした。
天羽飲料が、東京の大衆酒の歴史に大きな役割を果たしてきたことが、今回の証言で明らかになるはずです。
天羽飲料製造有限会社 | 堺由夫代表取締役社長 |
堺健太さん (4代目・後継ぎ) |
丸居政子さん (昭和25年より勤続59年) |
天羽飲料製造有限会社
堺由夫代表取締役社長
本社:
東京都台東区竜泉3-37-11
資本金 300万円
従業員 5名
沿革:
大正5(1916)年/洋酒問屋・天羽商店として創業
大正12~3年頃 ブドウの液を開発、飲料水製造に参入後、梅液発売。戦時中は酒屋として営業
昭和20(1945)年/営業再開
昭和40(1965)年/天羽飲料製造有限会社に改名
昭和27(1952)年/「赤ラベル」ハイボール原液発売。2~3年後までに「ハイボールタンサン」および「デラックス」(黄色ラベル)発売
昭和63(1988)年/堺慶次郎氏逝去、堺由夫氏3代目社長に