第4回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈前編〉

2.ひとり勝ちの歴史は大正時代から

 天羽飲料は大正5(1916)年、洋酒問屋・天羽商店から出発しました。創業100周年も見えてきた、古い会社です。

 「天羽商店は祖父、天羽弥三兵衛(やさんびょうえ)が興し、いろいろな洋酒を扱いましたが、主な商品は樽買いのポートワインでした。大きな樽で買ったポートワインを一斗の甕(かめ)に詰め替えて、地方発送していた。当時ですから値段が高かったんですよ。それで、何とか焼酎でこういった味ができないかと工夫し、大正12-3年頃に、ブドウの液を開発したんです」

 この「ポートワイン」は、本家ポルトガルの「Port Wine」ではなく、神谷伝兵衛が考案した模造ブドウ酒か、その追随品のことだと思われます。彼は愛知県の農家出身で、横浜の洋酒輸入店・フレッレ商会に勤め、『神谷バー』を創業した人。輸入ワインに、生薬や甘味料を加えて増量し、渋味を抜いて日本人の嗜好にあわせた「香竄葡萄酒」を明治15(1883)年に発表しました。3年後には登録商標として「蜂印」を添え、一時は圧倒的シェアを誇ったものの、明治40(1907)年発売の壽屋(現・サントリー)「赤玉ポートワイン」が、広告宣伝で追撃をかけました。やがて赤玉の攻勢に押された蜂印は、昭和2(1927)年、「蜂ブドー酒」と名を改め、さらに赤玉も、1973年、本場のポルトガルからクレームがつき、現在の「赤玉スイートワイン」に改名することになります。

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宇ちだ
(葛飾区立石1-18-8)
 堺社長の証言で、ブドウ液を焼酎の中にたらす、京成・立石の名店『宇ちだ』で有名なスタイルは、ポートワインからきているとわかりました。  ブドウ液で当てた天羽商店は、飲料水製造の道へと踏み出します。次に開発したのは、ウメ割り用の梅液。歴史上、ブドウ液が先で梅液があとだったというのもおもしろいことですが、ポートワインを範に取ったといわれれば、納得です。

 堺社長によると、

 「あの頃はまだまだ貧しかったから、強いアルコール度数の焼酎にちょこっとたらして、2~3杯飲んだらいい気持ちになるという、そんな時代だったんだと思います」

 興味深いことに、梅液、ブドウ液という呼称自体にも、天羽飲料の独自性があらわれているとのこと。

 「よくみんな、焼酎に入れるシロップといいますよね。ホントは違うんです。甘くないから。本当の名前は「液」なんです。昔は、ブドウ液くれ、梅液くれとみんな言ってたんですよ」
 他の飲料水メーカーとは違うという天羽飲料のこだわりが、「液」という呼びかたにあらわれているのです。

 「なぜそうなるかというと、ふつう、飲料水メーカーの流れは、ラムネ屋さんやサイダー屋さん、あるいはイチゴとかメロンの氷用のシロップから来ているから。でもうちは、最初からそういうことは一切やらず、焼酎などのアルコールと割るために飲ませる液をつくってきました」

 天羽飲料は、大正末から今にいたるまで、首尾一貫して、得意分野に専門特化した製品づくりを続けてきました。

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梅液
 天羽のブドウ液・梅液は、1世紀近いロングセラーですが、焼酎割り飲料のパイオニア・天羽飲料のひとり舞台が、戦後も続いた理由は、なんといっても「謎のエキス」こと、赤ラベルの「ハイボールA」を昭和27(1952)年に開発したことにあります。  梅やブドウの割り材は、シロップを得意とする他の飲料水メーカーも追随できます。堺社長の証言によれば、昭和30年代には果実系の風味をつけた(無果汁の)割り材が、山谷や三ノ輪あたりで飲まれていたとのこと。

 「私の学生の頃、20歳くらいからすでに、三ノ輪あたりで、レモンとか、リンゴ割りの酎ハイを飲んでいました。甘みをおさえた、要するにウメ割り、ブドウ割りの延長ですよ。そういうのは、(下町なら)どこでもやっていたんじゃないですか」

 その後、1980年代の「チューハイブーム」は、労働者文化の起源を黙殺することで、山の手の、そして全国の若者層をとらえる流行となりました。しかし、東京低地の新下町で圧倒的なシェアをもつ天羽飲料をしのぐ味の製品を、大手メーカーを含む他社は、ついに今まで、作りだすことができなかったのです。そのハイボール原液は、どのようにして開発されたのでしょうか。

■天羽飲料製造有限会社

堺由夫代表取締役社長

本社:
東京都台東区竜泉3-37-11
資本金 300万円
従業員 5名

沿革:

大正5(1916)年/洋酒問屋・天羽商店として創業
大正12~3年頃 ブドウの液を開発、飲料水製造に参入後、梅液発売。戦時中は酒屋として営業
昭和20(1945)年/営業再開
昭和40(1965)年/天羽飲料製造有限会社に改名

昭和27(1952)年/「赤ラベル」ハイボール原液発売。2~3年後までに「ハイボールタンサン」および「デラックス」(黄色ラベル)発売
昭和63(1988)年/堺慶次郎氏逝去、堺由夫氏3代目社長に

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