第4回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈前編〉
3.天羽飲料ハイボール原液・開発秘話
「大正時代に鳴門から東京へ来て、祖父と店を支え、戦争を生き延びて帰ってきたうちの親父(2代目・堺慶次郎氏)は、ものすごく先見の明があった人でした。世の中を観察して、どうもこのままだと、みんな豊かになって贅沢になっていくだろう。そうなると、梅割り・ブドウ割りみたいに、2~3杯飲んで酔っぱらって、それで終わりの酒じゃなくて、何杯も飲んで楽しめるお酒、つまりカクテルにあるロングドリンクスですよね。比較的アルコール度数が低くて、軽い、口を洗うような感じの品物を作ったほうがいいと考えた。親父は、天羽商店で丁稚から働いたから、洋酒の知識もあったんです」
そこで開発されたのが、焼酎ハイボールの原液だというのです。堺社長は証拠として「向島料理飲食業組合」の組合員名簿(1997年)に記載されていた「焼酎ハイボールの話」を見せてくれましたので、引用します。
ハイボールA
「戦後きびしい時代に、ビールは値が高く贅沢な物で一般大衆にはあまり呑まれていませんでした。そこで安い焼酎を使ってビールに近い飲み物として炭酸で割りハイボールの素を入れて酎ハイとして浅草龍泉寺の天羽商店が最初に開発し、それを隅田町、寺島町(東向島)、吾嬬町(八広、京島)、浅草、町屋、千住等の下町の大衆酒場で人気の飲み物になりました。(原文改行)当時の焼酎は臭いがきつい為、各店舗によって色々開発され、梅割りとかブドー割り、ホッピー等といわれた物がありまして、酎ハイ1杯30円から50円で売っていました」
ここでは「ビールに近い飲み物」とありますが、堺社長によると「ビールをつくろうと思ったことは一回もない。あくまでもカクテルのロングドリンクス」だそうです。
「当時の甲類焼酎の臭い消しもかねて、何杯も飲めるようなものを研究し、ある程度製品も出来上がっていた。ビールだとアルコール度数は4~5度でしょう。あの頃はそれじゃあちょっと物足りないと。原液1、焼酎2、炭酸3で割ると、アルコール度数が7~8度になるように計算した。ビールとはちがった味で、ビールよりも酔いが早い。そういう発想で作ったと思います」
ビールを目指したのではなく、あくまで焼酎の割り材としての着想が先にあったということでしょう。もっとも、「焼酎ハイボール」の名は、前回の連載で言及した『三祐酒場』が先行していたとのこと。
「中島さん(中島茂氏、前回言及)という、戦前に三祐で働いていたかたが、戦後帰ってきて、仕事がなく、うちに来て、梅割り・ブドウ割りはすでにあるから、新しいお得意が欲しいわけですよ。自分が売る新しいものを、なんとか作ってよと。じゃあ、ちょうどこれ完成したところだから、売ってみないかということになりました」
「そこで中島さんが、三祐さんで、ハイボールみたいなのをやっているみたいですって言って、ならこれを"ハイボールの液"として売ろう。同じようにロングドリンクスだから、焼酎ハイボール用のエキスということで売れと、渡りに船で持っていったのが、マルAの赤ラベルの焼酎ハイボールなんですよ」
したがって、前回書いた焼酎ハイボールのウイスキーハイボール起源説は、三祐酒場については当てはまるのですが、天羽飲料の原液に関しては、妥当しないことが判明しました。
「最初、売り込みに行くと、どんな味なのかとみんなに聞かれますよね。うちの親父が洋酒の知恵をしぼって、一番飲みやすい状態に作った品物なんですけど、味を説明するのに、比べるものがないわけです。結局、中島さんが、ビールに近い飲み物だと説明しました。でも、ビールよりも軽くて、すっきりと飲める、薄口の味だと。濃いものは2~3杯で飽きますが、関西料理のように、薄口のほうがぜいたくに、たくさん食べて飲めるんです。それもうちの親父がよく私に言ってました。レモンのスライスを最初に入れさせたのも、うちの親父の考案です。カクテルに浮かせるレモンピールから、レモンをアクセントにすることを考えた。さらに、どういうグラスで出すか、2合コップを使わせようと決めたのもうちの親父です。なぜかというと、調合が1:2:3でしょう。2合だと、3の炭酸がぴったり1合入るんです。今の炭酸のビンは200mlが主流ですけど、昔は180mlの1合ビンだったんですよ。それでなみなみと注ぐと、お客さんが喜びますから。氷を入れずに薄まらないようにしてね。水を張っている冷蔵庫、水冷式が一番冷えるので、あれに焼酎と原液を混合したボトルを入れて、炭酸も冷やして提供しなさいと指導した。だから堀切の小島屋さん(後出)なんか、いまでもそれを守ってますよね。量も多いし、よく酔うし、安いということで、当たったんです。
ビールでもなく、ウイスキーでもない。偶然が重なって「焼酎ハイボール」と名づけられた下町カクテルの真の秘密は、「謎のエキス」の味にあるようです。