第5回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈後編〉
2.地域文化としての焼酎ハイボール
「うちのハイボールは、工場の工員さんが飲んでたんですよ」
隅田川の川向こうに広がる低地には、明治20(1887)年の東京綿商社・紡績工場(明治26(1893)年に鐘淵紡績と改称)を皮切りに、工場が建ち並ぶようになります。大正期の重工業の発展にともない、運輸と工業用水の便がよい河川・沿海部、とくに城東の本所・深川地区は一大労働者街と化しました。
東京大空襲で狙い撃ちされた悲劇をのりこえて、戦後も江東には大小の工場が林立し、高度成長を下支えしました。つげ義春「大場電気鍍金工業所」の世界です。
大力
(墨田区京島1-8-5)
昭和30年代、まだ居酒屋ではメニューが少なく、仕事帰りの男性労働者が、もつ焼きをひたすら食べ、焼酎ハイボールをあおった時代。堺社長は、焼酎ハイボールは工員さんたちに愛されたと言うのです。
丸居さんによれば、「昔はひとりで10杯以上、うちのを飲んでいた」といい、私も同様の証言を、あちこちで聞いています。
たとえば、天羽の素の焼酎ハイボールともつ焼きの店、京島の『大力』では、かつて周囲の工場で働く工員さんが常連であり、彼らのスタミナ源がモツだったそうです。仕事帰りの工員さん同士で、どちらが多く食べ、何杯飲めるか競争し、最後は喧嘩で終わる。そんな男らしい世界があったと。
堺社長も、
「おたくのハイボールやると、一人で何杯も飲んでくれるから、儲かっていいと、酒場さんがよくいいます。何杯も、スイスイいっちゃうんだよな。アルコール度数も高めだしね」
と、客単価があがるのは、飲み口のよさのおかげだといいます。切れ味重視で飲みやすく、何杯でもいけるとは、後にブームを起こした辛口の「ドライ」ビールを思わせますねと話したところ、
「その話でいえば、恵比寿の『縄のれん』ね、あそこはもとサッポロビールの工場があったでしょう(現・恵比寿ガーデンプレイス)。サッポロビールの工員さんたちが、やはりうちのファンで、仕事帰りに自分の会社のビールを飲まないで、縄のれんの酎ハイを飲みに行った。それで会社の幹部が頭に来て、黄色い色の、なんだか水みたいなあれを研究しろと、やったらしいけど、結局わからなかったようです」
と、これまた痛快なエピソードを披露してくれました。
「縄のれんさんはもともと亀戸でしたが、恵比寿に移転したとき、うちのハイボールを持っていって成功したんです」
と、やはり東京低地が原点であることを強調します。
「マルAの赤ラベルと、(その2~3年後に発売された)黄色いラベルの『デラックス』は、香料がちがうだけで、あくまでも同じ味です。赤は焼酎用、黄色のほうはウイスキー用。面白い話があって、勝どきの『かねます』さんはウイスキーのハイボールだけど赤ラベルを使ってるんですよ」
と、思いがけない話の展開に、思わず身を乗り出して聞くことに。
「かねますさんの大将が、うちの売り子さんのお得意さんで、やっぱり亀戸にあるもつ焼きの『小池屋』さんの大将と仲がよくて、紹介されたのがきっかけです」
そして、船橋の『加賀屋』では、黄色ラベルで焼酎を割るという逆のやり方をしているそうです。
加賀屋
(船橋市本町4-42-7)
浅草の後背地(台東区竜泉)に位置する天羽飲料が、戦前のブドウ割り・ウメ割りに続き、戦後も、焼酎ハイボールという、舶来と土着の折衷文化を生み出し得たこと。さらに、荒川・中川放水路のまわりに広がる工場労働者街が、それを昭和30~40年代に地域文化として開花させた事実は、山の手と有名ターミナル駅に偏ってきたこれまでの「都市化」論の視点(例:吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』)に、修正を迫るものでしょう。
「うちのハイボールは、酒場に行列をつくらせた元祖じゃないかな。昭和30年当時は、みんな行列して飲んでたんですよ」
という堺社長の証言には、回顧談をこえた社会史的価値があると私は思います。