第5回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈後編〉

3.「酎ハイ」の呼称がなぜ一般名詞化したのか

 「酎ハイ」という名がひろく流通したきっかけは、1984年に発売された宝酒造の「缶チューハイ」にあるというのが通説。しかし、堺社長は、真の原因は天羽飲料にあるといいます。

 まず、飲み屋のお客さんが焼酎ハイボールを省略して酎ハイと呼んだのは、1952年の発売直後から。

「もう55年以上も『酎ハイ』と言われてます。焼酎ハイボールの名前で、飲食店さんで幅広く売る品物になったのは手前どもが最初だと自負してますから。神田食品(研究所)さんは昭和30年あたりにうちの影響で(ハイボール原液を)始めたんでしょう」

 「はっきり言って、下町で酎ハイとして認められているのは、手前どものこの黄色い色のものなんです。(色のつかない)焼酎の炭酸割りは、西のほうで、ハイサワーさんがブームを起こしたときに、酎ハイになったんです」

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カンダハイボール
 黄色の酎ハイこそが「当たり前」であり、山の手で、透明な焼酎の炭酸割りが「酎ハイ」として出てくるほうが、特別なことなのです。

 「ハイサワーさん、ホッピーさん、ホイスさん、みんな会社の名前が表に出て、商標登録もしている。うちはただの焼酎ハイボールで結構と、社名を出さず、商品名も常に秘密。だから大きなメーカーさんは、一番「酎ハイ」が使いやすかったんでしょう」

 簡単にまねできない味という自信から、秘密主義を貫いていたため、かえって名前が使われやすくなっていました。

「うちとか、ホッピーさんとか、ホイスさんが受けていた時は大手が参入しづらかったんですよ。複雑でデリケートな味だから、どうすれば受けるのか、よくわからなかった。昭和50年ごろ、うちのハイボールの原液が一番売れていた時、西のほうはほとんど酎ハイなんて知らなかったからね。どうしてかというと、隅田川から西には絶対に知れ渡らないように、向こうにお客をとられまいと、止めていた。うちの親父が一番初めにいった、秘密でやっていけよっていうことをかたくなに守っていたんです。だから、いまでもペーパー切ってくる酒場が多い。(商品名や会社名を秘密にするためにラベルをはがした)一升瓶が帰って来るの。下町のハイボールとして、いまだに大事に扱ってくれるところがたくさんあるのは、ありがたいですね」

 逆に、東京の西に位置する博水社、そして大手メーカーには、山の手の広大な市場が、手つかずに残されていたといえます。

 1979年にハイサワーが出て、ブームを起こし、84年に缶チューハイが出る。しかし、サワーの登場とともに、「酎ハイ」の定義も変わってしまいました。

 「ハイサワーさんは、レモン果汁を炭酸に入れたから、まねしやすかった。大手も、これはしめたと思ったんじゃないんですか。フルーツ系なら、ジュースで得意なわけだから。砂糖をちょっと減らして、焼酎と合うようにしてね。コロンブスの卵じゃないけど、ハイサワーさんが出てから、大手がみんな参入したのは、参入しやすかったからです」

 ものの本にはどれも、昭和59(1984)年に酎ハイブームが来たと書いてありますが、その裏には上のような事情があったのです。焼酎の炭酸割りが広く酎ハイと呼ばれるようになった背景には、天羽飲料の存在が隠れていました。

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