第6回 特別編 座談会 焼酎割り飲料は東京のローカル文化だ!〈前編〉
2.進駐軍の影響と、山谷での流行
神)丸源(丸源飲料工業株式会社・東京都墨田区立花)さんは、今残っているメーカーの中で一番古いと思いますが、はじめたのは何年ですか。
阿)大正6(1917)年です。
神)うち((株)興水社・東京都墨田区吾妻橋)が大正13(1924)年。前年の関東大震災の焼け跡で、何をしようかと考えて、ラムネをはじめた。
阿)もともと、東京の清涼飲料水メーカーは、みんなラムネ屋・サイダー屋でした。仕事の合間に、お客様の要望があれば炭酸水をつくりました。私どもは昭和20年代半ば、進駐軍から注文があったのが最初です。ビンがないので、バドワイザーの昔のスタッピービン(360ml)を進駐軍にもらって炭酸水を充填し、ダンボール箱に入れて、横田基地から取りに来てもらいました。なぜなら、当時のわれわれにはそこまで行けるトラックがない(笑)。リヤカーや荷車、牛車や馬力でしたから。炭酸水がメインになったのは戦後です。
Q)炭酸水がメインになったのは、昭和30年代の洋酒ブームでしたか?
寺)いや、「酎ハイ」が流行ったころ。いわゆる山谷地区、泪橋あたりで、仕事にアブレた人たちが、朝から飲んでいました。浅草あたりに、あのころは怖くて歩けないくらい、大勢いたものです。
Q)とすると、サントリーが洋酒ブームを起こしていた時代に、同じ東京でも、山谷や浅草を震源地として焼酎ハイボールブームが存在していたということになりますね。
寺)戦後から30年代にかけて、山谷には人が集まっていました。
神)戦後のどさくさで、労務者がドヤに集まっていて、安く酔うために質の悪い焼酎を飲む。焼酎の臭いをごまかすために、いろいろな割り材を入れて、炭酸で割るようになりました。私は学校出たてのころ、山谷で彼らが、昼間から酔っ払っている間を縫うように配達したものです。
阿)われわれ東京の炭酸メーカーにとって、山谷のようなところの酒屋さんはいいお得意さまでした。
寺)東京には、たとえば新宿のガード下など、たくさんあったんです。
Q)敗戦後に酒類を供給したのは、酒屋のカウンターが多かったのですね。
阿)ヤミ市の跡によくありました。当時は、酒屋さんの中や、店先にカウンターを設けて、立ち飲みで労働者に飲ませていたんです。